スモレンスク包囲とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > スモレンスク包囲の意味・解説 

スモレンスク包囲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/05 23:13 UTC 版)

スモレンスク戦争」の記事における「スモレンスク包囲」の解説

詳細は「スモレンスク包囲 (1632-1633)」を参照 一方スモレンスクにおけるポーランド・リトアニア共和国軍隊は、スモレンスク県知事アレクサンデル・コルヴィン・ゴシェフスキ率いスモレンスク守備隊1600人、大砲170)であり、総動員令によって召集され地元貴族からなる1500人の強兵によって援護されていた。都市要塞イタリア式堡塁改良されたばかりだった。 シェイン城砦包囲して都市出入り遮断したトンネル坑道利用してロシア軍市壁市壁備え付けられた塔の一つ連絡切断した大半西ヨーロッパ製であるロシア大型大砲は、1632年12月スモレンスク到着し翌年3月に銃が届いた予備大砲による攻撃のあと、シェイン直接攻撃命じたが、ポーランド守備兵撃退された。ところが包囲続いてスモレンスク要塞破壊進み守備隊側は大量死傷者補給物資の不足に苦しんだ1633年6月までに、一部兵士脱走始め残った兵士達降伏について論じようになった。 しかし、副知事サムエル・ドルツキ=ソコリンスキの指揮下にある町は1633年通じて持ちこたえ、一方で共和国では新王ヴワディスワフ4世救援のための軍勢組織していた。セイム1632年10月30日ロシア軍侵入の報を聞き11月には救出見込みについて議論始めた結論を出すのは1633年の春まで遅れたが、セイムは公式に宣戦布告軍隊編成するのに必要な戦費拠出65ズウォティで、これはヴワディスワフ4世治世において最も高額な戦費であった)を認可した編成され援軍はおよそ2万1500人の大軍であり、有翼驃騎兵24旗(ホロンギェフ、騎馬3200頭)、コサック騎兵呼ばれる軽騎兵27旗(騎馬3600頭、コサック構成されているわけではない)、黒騎兵10中隊騎馬1700頭)、リトアニア連隊7隊(騎馬780頭)、竜騎兵7大隊騎馬2250頭)、歩兵隊20隊(1万2000人)で構成されていた。1万人を超える歩兵隊は、それまで共和国では滅多に見られなかった、西欧式に組織され新型軍隊だった。 一方リトアニア野戦ヘトマンクシシュトフ・ラジヴィウスモレンスク県知事のゴシェフスキは、オルシャからバユフ、クラシネと移動してスモレンスクから30キロ地点野営地をおいた。彼らは1633年2月までに2000人の歩兵を含む4500人の兵士をかき集めロシア軍包囲戦術背後から叩くことにした。ヘトマンラジヴィウ公は何度ロシア軍戦列突破し兵士1000人と補給物資送り込んで要塞強化し要塞内の士気回復成功した1633年の夏までに、国王自身率いられ2万5000にのぼるポーランド・リトアニア共和国解放軍歴史家パヴェウ・ヤシェニツァによると2万)はスモレンスク郊外至り1633年8月17日にはオルシャ到着した1万4000解放軍主力部隊9月初旬スモレンスクへの進軍始めた一方補充されロシア軍総力2万5000となった1万人から2万人を数えたというティモフィイ・オレンダイコ率いコサック援軍9月17日到着し共和国軍は数の上優勢に立った。オレンダイコとマルチン・カザノフスキに率いられコサック軍ロシア軍戦列突破しラジヴィウとゴシェフスキ麾下共和国軍による包囲を崩すための攻撃加勢した。 ヴワディスワフ4世の弟ヤン・カジミェシュが連隊一つ指揮しており、また王冠領野戦ヘトマンのマルチン・カザノフスキも参加していた。共和国軍近代化立役者だったヴワディスワフ4世は、有能な戦略家としての才能示し彼の発案だった大砲導入要塞西欧化共和国軍戦勝もたらすことになった国王火縄銃マスケット銃変え、これを共和国軍浸透させたことも、有効に作用した有翼驃騎兵を含む共和国騎兵軍は、ロシア軍追い詰めて塹壕から出られないようにした。烈しい戦闘の中で、共和国軍だんだんとロシア軍陣地荒廃させ、包囲9月下旬には最終段階迎えた1633年9月28日共和国軍ロシア軍主要な補給物資管理地点奪い取り10月4日までに包囲崩れたシェイン軍隊主要な野営地撤退したが、逆効果となって野営地10月中旬共和国軍によって包囲された。ロシア軍援軍到着待った誰も彼らを助けには来ず共和国軍コサック軍騎兵ロシア軍後方から攻めて総崩れにするために送り込まれた。一部歴史家ロシア軍キャンプ内で意見食い違い内部対立生じていたため、有効な応戦を展開できなかったと指摘している(ヤシェニツァはロシア軍司令官傭兵隊パーカー対立だとしている)。さらにロシアではこの時期クリミア・タタール南部国境地域攻め込み同地域から来ていた多く兵士ボヤーレ故郷防衛すべくロシア軍キャンプから脱走した。また一部傭兵脱走し共和国軍加わったシェイン1634年1月降伏のための交渉始め2月までに交渉完了した1634年2月25日ロシア側は降伏文書サインし3月1日キャンプ撤収した一部研究者シェイン文書調印の日が3月1日だったとする)。降伏文書によればロシア軍大砲大半残して撤退するよう取り決められたが、国王ヴワディスワフ4世戦勝式典のあとで軍旗持ち帰ることを許された。また彼らは今後3か月のあいだ共和国軍交戦しないことも約束させられた。文書調印時点ではシェイン軍隊はおよそ1万2000人いたが、うち4000人(大半外国人だった)が離反して共和国従った

※この「スモレンスク包囲」の解説は、「スモレンスク戦争」の解説の一部です。
「スモレンスク包囲」を含む「スモレンスク戦争」の記事については、「スモレンスク戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「スモレンスク包囲」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「スモレンスク包囲」の関連用語

スモレンスク包囲のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



スモレンスク包囲のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのスモレンスク戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS