スモレンスク包囲
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「スモレンスク戦争」の記事における「スモレンスク包囲」の解説
詳細は「スモレンスク包囲 (1632-1633)」を参照 一方、スモレンスクにおけるポーランド・リトアニア共和国の軍隊は、スモレンスク県知事アレクサンデル・コルヴィン・ゴシェフスキの率いるスモレンスク守備隊(1600人、大砲170)であり、総動員令によって召集された地元貴族からなる1500人の強兵によって援護されていた。都市の要塞はイタリア式の堡塁に改良されたばかりだった。 シェインは城砦を包囲して都市の出入りを遮断した。トンネルと坑道を利用して、ロシア軍は市壁と市壁に備え付けられた塔の一つの連絡を切断した。大半が西ヨーロッパ製であるロシアの大型大砲は、1632年12月にスモレンスクに到着し、翌年3月に銃が届いた。予備の大砲による攻撃のあと、シェインは直接攻撃を命じたが、ポーランドの守備兵に撃退された。ところが包囲は続いて、スモレンスク要塞は破壊が進み、守備隊側は大量の死傷者と補給物資の不足に苦しんだ。1633年6月までに、一部の兵士は脱走を始め、残った兵士達も降伏について論じるようになった。 しかし、副知事サムエル・ドルツキ=ソコリンスキの指揮下にある町は1633年を通じて持ちこたえ、一方で共和国では新王ヴワディスワフ4世が救援のための軍勢を組織していた。セイムは1632年10月30日にロシア軍侵入の報を聞き、11月には救出の見込みについて議論を始めた。結論を出すのは1633年の春まで遅れたが、セイムは公式に宣戦布告と軍隊を編成するのに必要な戦費の拠出(65万ズウォティで、これはヴワディスワフ4世の治世において最も高額な戦費であった)を認可した。編成された援軍はおよそ2万1500人の大軍であり、有翼驃騎兵24旗(ホロンギェフ、騎馬3200頭)、コサック騎兵と呼ばれる軽騎兵27旗(騎馬3600頭、コサックで構成されているわけではない)、黒騎兵10中隊(騎馬1700頭)、リトアニア連隊7隊(騎馬780頭)、竜騎兵7大隊(騎馬2250頭)、歩兵隊20隊(1万2000人)で構成されていた。1万人を超える歩兵隊は、それまでの共和国では滅多に見られなかった、西欧式に組織された新型軍隊だった。 一方、リトアニア野戦ヘトマンのクシシュトフ・ラジヴィウとスモレンスク県知事のゴシェフスキは、オルシャからバユフ、クラシネと移動してスモレンスクから30キロの地点に野営地をおいた。彼らは1633年2月までに2000人の歩兵を含む4500人の兵士をかき集め、ロシア軍の包囲戦術を背後から叩くことにした。ヘトマンのラジヴィウ公は何度かロシア軍の戦列を突破し、兵士1000人と補給物資を送り込んで要塞を強化し、要塞内の士気回復に成功した。 1633年の夏までに、国王自身に率いられた2万5000にのぼるポーランド・リトアニア共和国の解放軍(歴史家パヴェウ・ヤシェニツァによると2万)はスモレンスク郊外に至り、1633年8月17日にはオルシャに到着した。1万4000の解放軍の主力部隊は9月初旬にスモレンスクへの進軍を始めた。一方、補充されたロシア軍は総力2万5000となった。1万人から2万人を数えたというティモフィイ・オレンダイコ率いるコサックの援軍は9月17日に到着し、共和国軍は数の上で優勢に立った。オレンダイコとマルチン・カザノフスキに率いられたコサック軍はロシア軍の戦列を突破し、ラジヴィウとゴシェフスキ麾下の共和国軍による包囲を崩すための攻撃に加勢した。 ヴワディスワフ4世の弟ヤン・カジミェシュが連隊の一つを指揮しており、また王冠領野戦ヘトマンのマルチン・カザノフスキも参加していた。共和国軍の近代化の立役者だったヴワディスワフ4世は、有能な戦略家としての才能を示し、彼の発案だった大砲の導入と要塞の西欧化は共和国軍に戦勝をもたらすことになった。国王は火縄銃をマスケット銃に変え、これを共和国軍に浸透させたことも、有効に作用した。 有翼驃騎兵を含む共和国の騎兵軍は、ロシア軍を追い詰めて塹壕から出られないようにした。烈しい戦闘の中で、共和国軍はだんだんとロシア軍の陣地を荒廃させ、包囲は9月下旬には最終段階を迎えた。1633年9月28日、共和国軍はロシア軍の主要な補給物資の管理地点を奪い取り、10月4日までに包囲は崩れた。 シェインの軍隊は主要な野営地に撤退したが、逆効果となって野営地は10月中旬に共和国軍によって包囲された。ロシア軍は援軍の到着を待ったが誰も彼らを助けには来ず、共和国軍とコサック軍の騎兵がロシア軍を後方から攻めて総崩れにするために送り込まれた。一部の歴史家はロシア軍のキャンプ内で意見の食い違いと内部対立が生じていたため、有効な応戦を展開できなかったと指摘している(ヤシェニツァはロシアの軍司令官と傭兵隊長パーカーの対立だとしている)。さらにロシアではこの時期、クリミア・タタールが南部国境地域に攻め込み、同地域から来ていた多くの兵士とボヤーレが故郷を防衛すべくロシア軍のキャンプから脱走した。また一部の傭兵も脱走して共和国軍に加わった。 シェインは1634年1月に降伏のための交渉を始め、2月までに交渉は完了した。1634年2月25日にロシア側は降伏文書にサインし、3月1日にキャンプを撤収した (一部の研究者はシェインの文書調印の日が3月1日だったとする)。降伏文書によれば、ロシア軍は大砲の大半を残して撤退するよう取り決められたが、国王ヴワディスワフ4世の戦勝式典のあとで軍旗を持ち帰ることを許された。また彼らは今後3か月のあいだ共和国軍と交戦しないことも約束させられた。文書調印の時点ではシェインの軍隊はおよそ1万2000人いたが、うち4000人(大半が外国人だった)が離反して共和国に従った。
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