スモレンスク公の干渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:53 UTC 版)
「ポロツク公国」の記事における「スモレンスク公の干渉」の解説
13世紀の前半には、ポロツク公国は一時スモレンスク公国に従属した。ポーランドのMaciej Stryjkowski(en)(注:ポーランド語表記)の年代記では、ラトビアにおける支配力の喪失が、ポロツク内部の暴動を引き起こしたとしている(ただし、年代記記述の資料の研究が不十分であったと推測されてもいる)。いずれにせよ、紛糾するポロツクの状況をスモレンスク公が利用した。1222年1月17日、スモレンスク公ムスチスラフはポロツクを占領し、甥のスヴャトスラフを据えた。1232年ごろに再びポロツク公家に連なる、ヴィテプスク公家のブリャチスラフがポロツク公となるが、彼が最後のポロツク公家出身者のポロツク公となった。また、リューリク朝出身者としても最後となった。なお、ルーシの年代記には、1239年に彼の娘のヴァシリサ(洗礼名アレクサンドラ)が、ウラジーミル大公国のアレクサンドル・ネフスキーと結婚した、という記述がある。
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