サン・ヴィトの攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)
詳細は「サン・ヴィトの戦い(英語版)」を参照 戦線北側、サン・ヴィト(ザンクト・フィート、サン・ヴィットとも)の街は重要な道路の交差地点で、ドイツ軍の主要な目標であった。しかし、第106歩兵師団が第5装甲軍に包囲されたせいで、サン・ヴィトの防衛は弱体化していたので、ホッジスは急遽、ブルース・C・クラーク(英語版)准将が率いる第7機甲師団(英語版)B戦闘部隊を増援として派遣した。第7機甲師団B戦闘部隊にはサン・ヴィトを防衛しつつ、シェーンベルグに進撃し包囲されている第106師団2個連隊を救出するという任務も与えられていた。しかし、サン・ヴィトに向かう道路上には前線から退却してくるアメリカ兵があふれて渋滞しており、第7機甲師団B戦闘部隊はなかなか前進できなかった。サン・ヴィト防衛部隊は第106歩兵師団及び第9機甲師団(英語版)の一部と第28歩兵師団(英語版)の残存部隊という寄せ集めであったが、12月17日以降、ドイツ軍の攻撃をよく防いでいた。特に配備されていたM4戦車はこれまで戦ってきた75㎜短身砲型ではなく、M4A3の76㎜長身砲型でありドイツ軍の戦車とも互角に渡り合うことができて大きな戦力となった。 第7機甲師団B戦闘部隊の先陣は渋滞をかき分けながらどうにか12月17日の夜にサン・ヴィトに到着した。しかし、後続部隊は渋滞に巻き込まれていつ到着するのかも分からず、第7機甲師団長ロバート・W・ハスブルーグ准将はこれ以上の進撃を断念してサン・ヴィトの防衛を固めることをクラークに命じた。クラークは指揮下の戦車をいくつかの小部隊に分けると道路上の拠点に配置し、戦車と機甲歩兵各1個大隊で編成された主力を市街西方の高地で待機させ、どの拠点にドイツ軍が侵攻してきても、拠点上の小部隊が足止めしている間に、主力が駆けつけるといった機動防御の体制を構築した。夜が明けた12月18日には第1SS装甲師団の一部がティーガーIを先頭にして防衛戦の4か所を攻撃してきた。アメリカ軍は果敢に抵抗し、ある陣地では道路上を進撃してきたティーガーIの後を、陣地内に隠れていた第38装甲歩兵大隊のM8装甲車が追尾し、25mの距離に近づくと、気が付いて砲塔を回転させてきたティーガーIの後部装甲にM3 37mm砲を3発撃ち込んで間一髪で撃破している。装甲車でティーガーIを撃破した大戦果に守備隊は大いに士気が高まったが、ドイツ軍の記録ではこの日に戦闘で撃破されたティーガーIの記録はなく、IV号戦車などとの誤認も指摘されている。この日は第7機甲師団B戦闘部隊の奮闘もあってドイツ軍は撃退され、翌12月19日の攻撃も散発的で小規模なものとなった。しかし、この日には救出の望みが絶たれ食料や弾薬も尽きた第106歩兵師団の2個連隊が降伏している。 第7機甲師団B戦闘部隊の後続の到着で戦力が強化されたサン・ヴィト守備隊であったが、指揮系統に大きな問題を抱えていた。寄せ集めの部隊であったため、指揮系統が明確でなく、救援部隊の第82空挺師団のジェームズ・ギャビン少将がサン・ヴィト市街に入り最上位であった第106歩兵師団の師団長ジョーンズに戦況を確認したが、配下の2個連隊が降伏したことと、その連隊に自分の息子がいたことですっかり意気消沈しており、第7機甲師団B戦闘部隊指揮官クラークに統一指揮を任せているということであった。しかし、クラークは第7機甲師団司令部に出向いた帰路で、第150SS装甲旅団に過剰反応した野戦憲兵の検問で5時間も拘束されて不在にしていた。そこで指揮は先に到着していた第7機甲師団長のハスブルーグがとるべきであったが、ハスブルーグは階級が上のジョーンズに気兼ねしているなど、統一的な指揮がとられていなかった。ギャビンはこの状況を見て「激戦の中でも人事、とくに人間関係は大きな問題になることがわかった」との感想を抱いている。 12月19日にはサン・ヴィトはアメリカ軍の防衛線から突出した形となって孤立していたが、ドイツ軍から見ると、第6SS装甲軍と第5装甲軍の進撃路の中間点での大きな障害となっており、いわば「ドイツ軍の喉仏に刺さった魚の骨」のような状態になっていた。12月20日夜にモーデルは「これ以上は待てない、サン・ヴィトを攻略せよ」とディートリヒとマントイフェルに命じている。ドイツ軍はサン・ヴィトと後方の連合軍拠点とを結ぶ連絡路を遮断してサン・ヴィトを包囲しようとしたが、そこは増援の第82空挺師団の先行部隊の必死の防衛によって確保していた。ドイツ軍は12月21日になって戦力を揃えて、第18国民擲弾兵師団と第62国民擲弾兵師団(英語版)が総攻撃をしてきた。サン・ヴィトにはアメリカ軍が馬蹄型の陣地を構築していたが、その前衛にいた第7機甲師団B戦闘部隊の第38機甲歩兵大隊がドイツ軍の攻撃に曝されることとなった。しかし第38機甲歩兵大隊は圧倒的優勢なドイツ軍相手に善戦し、構築していた機関銃座がドイツ兵を次々となぎ倒して何度も撃退した。頑強なアメリカ兵の抵抗に手を焼いたドイツ兵は、機関銃座に対して本来は対戦車兵器であったパンツァーファウストを撃ち込んでくるなど猛攻を加えてきて、670人が所属していた大隊は夜までドイツ軍の総攻撃に持ちこたえたが、ほぼ全員が死傷したか投降して捕虜となっていた。 馬蹄型陣地が分断され、市街へのドイツ軍突入も時間の問題となったが、市街にいた22,000人のアメリカ兵のうち、これまでの戦闘で6,000人が負傷しており、ドイツ軍の攻撃に耐えられないことは明白となっていた。サン・ヴィトの戦況を聞いた第18空挺軍団司令のリッジウェイは、サン・ヴィトの西方に周囲16㎞ほどの円形防御陣地を構築し、そこに守備隊を撤退させ増援部隊到着まで防備を固めてしのぐといった作戦を立ててハスブルーグとクラークに提案した。このリッジウエイが考案した陣地はその形状から「要塞化されたがちょうの卵」と呼ばれることになったが、ハスブルーグとクラークは陣地に固着すれば戦車の特性を台無しにしてしまうといってリッジウェイの提案を拒否した。そこで軍司令のモントゴメリーが介入し「部隊は名誉をもって戻ってよいのである。より堅実な陣地に戻ったのである。彼らはすばらしい戦いぶりを示した」とねぎらいの言葉を添えた撤退命令を出し、ハスブルーグとクラークも命令に従って、12月23日払暁に第82空挺師団が確保している脱出路を通って「がちょうの卵陣地」に向けて撤退を開始した。当初は雪解けの泥により撤退が難航し、追撃してくるドイツ軍に捕捉される懸念もあったが、朝からの吹雪によって泥が再び凍り付き、撤退は順調に進んだ。結局守備隊はそのまま西のサルム川(英語版)を越えて第82空挺師団が確保している安全地域まで撤退した。ドイツ側の計画では攻勢2日目の18:00までにサン・ヴィトを確保することになっていたが、結局サン・ヴィトの確保に5日、周囲の掃討に2日の計7日も要することとなり、ドイツ軍の進撃を大きく遅らせて、ホッジスの第1軍は防衛線を整備し、モントゴメリーの第21軍集団は反撃の態勢を整えることができた。このサン・ヴィトの攻防が「バルジの戦い」の勝敗を決定づける要因となったという指摘もある。
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