第5装甲軍の進撃
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マントイフェル率いる第5装甲軍はその機動性を活かして、アルデンヌ戦線中央を進撃し攻撃2日目までには交通の要衝であるサン・ヴィト、ウーファリズ(英語版)、バストーニュを攻略するように命じられていた。とくに東西の道路網の中心でバストーニュは、アメリカ軍の反撃阻止の意味合いからも最重要攻略目標とされていた。第6SS装甲軍がヒトラーの指示で作戦開始前に、アメリカ軍陣地に集中砲火を加えてから進撃を開始したのに対して、マントイフェルはこれまでの豊富な実戦経験から、強固な陣地を構築する敵に対して多少の準備砲撃を行ったところで、敵に与える損害は大したことはないのに対して無用に防備を固める逆効果しかないと考えており、ヒトラーの命令に逆らって、まずは、入念に戦場の地形の偵察を行ない、敵に気づかれないうちに包囲する浸透戦術をとることにしている。 “幽霊戦線”でもっとも敵陣に近いところに配置されていた部隊の1つが戦闘経験の乏しい第106歩兵師団であったが、マントイフェルは事前に機械化部隊を第106師団が陣地を構築している丘陵地帯を迂回させ、道路に沿って進撃させていた。やがて作戦開始時間となると、油断しきっていた第106歩兵師団の2個連隊を包囲してから激しい砲撃を加えて大混乱に陥れている。これは、正面からクリンケルトとロッヒェラートを攻めて苦戦している第6SS装甲軍とは対照的で、マントイフェルの巧みな指揮が際立つこととなった。第106歩兵師団長のアラン・ジョーンズ少将は、包囲された2個連隊にサン・ヴィト方面への脱出を命じるが、ドイツ軍の包囲は厚く包囲網を突破することができず死傷者が続出した。弾薬などの物資が底をついたが、悪天候で空輸でも補給もままならず、包囲されて3日後の12月19日、両連隊長はドイツ軍に降伏した。この降伏でアメリカ軍は9,000人余りが捕虜となりドイツ軍はこの勝利を誇らしげに喧伝し、この後も足踏みが続く第6SS装甲軍主力に対して、第5装甲軍の快進撃が続くこととなる。 戦線中央にはアメリカ軍第28歩兵師団(英語版)の3個連隊が薄く広く配置されていた。その中で最前線に配置されていた第109歩兵連隊と第112歩兵連隊は攻撃開始とともに45分間の激しい猛砲撃を浴び、その後はたった2個連隊で第5装甲軍の第58装甲軍団と第47装甲軍団、第7軍の第85軍団の3個軍団を相手に戦うこととなった。それでも、第112歩兵連隊は戦車を伴って進撃してきた第5降下猟兵師団と激戦となったが、第9機甲師団(英語版)の支援もあって終日ドイツ軍を近づけさせず戦線を保持した。しかし、周囲を進撃していくドイツ軍を見てこれ以上の戦線保持は困難と判断した連隊長は、連隊に夜間に背後のウール川と渡河しての撤退を命じたが、既に独第116装甲師団も渡河しており、第28歩兵師団司令部への進路を閉ざされ、司令部との合流が困難となった第112歩兵連隊はサン・ヴィトに向けて撤退した。同様に第109歩兵連隊も圧倒的なドイツ軍の猛攻にどうにか防衛線を維持していたが、第112歩兵連隊の戦線を突破した第5降下猟兵師団に背後を脅かされたため、南部の友軍防衛線への合流を目指して撤退した。 第28歩兵師団の2個連隊を撃破した第5装甲軍は、アメリカ軍が「スカイ・ドライブ」と名付けていた整備された道路を使用しバストーニュ目指して進撃したが、クレルヴ川(英語版)をのぞむ要衝を守る第28歩兵師団の第110歩兵連隊と戦闘になった。攻撃初日にドイツ軍は第110歩兵連隊が守る要衝のひとつマルナッハ(英語版)に第2装甲師団の装甲擲弾兵が到達、激戦の末に攻略に成功していた。第110歩兵連隊のハーレー・フラー大佐は、自分たちが守る地域はクレルヴ川にかかる橋梁を望める要衝であり、その重要性を痛感していたことから奪取されたマルナッハの奪還を試み、第707戦車大隊の支援を受けて3方向からマルナッハを目指したが、昨日のうちに、ヴィレル・ボカージュの戦いでも名高い精鋭の装甲教導師団が村落に到着しており、装甲擲弾兵のみと考えていたフラーの目論見は外れて、強力なドイツ軍の反撃に第110歩兵連隊は大損害を被った。なかでも北方から進撃してきた18輌のM5軽戦車がドイツ軍戦車の砲撃で次々と撃破され、11輌を失って撃退されるなど、アメリカ軍の攻撃は失敗した。 突然のドイツ軍の侵攻に不意を突かれた第8軍団(英語版)の司令官トロイ・H・ミドルトン(英語版)少将は、ドイツ軍の規模やその意図についての情報を全く持たない中で、「諸隊が現在地を撤退するのは、そこが持ち堪えられなくなったとき、ただ、その時にかぎる」と実質的な死守命令を出した。隷下の各師団からはドイツ軍の戦力が強大なことや、いたるところで前線が突破されているという情報がもたらされたが、ミドルトンの死守命令が覆ることはなく、さらに「一切の陣地はいかなる犠牲をはらっても、これを堅持せよ」と強い命令を下している。 その後、第110歩兵連隊はクレルヴォー(英語版)とホージンゲン(ドイツ語版)でドイツ軍を迎え撃つこととなった。ミドルトンは予備兵力の第9機甲師団R戦闘部隊から戦車1個中隊と駆逐戦車4輌を送り込みフラーに死守命令を出したが、もはやクレルフ川をドイツ軍に突破されるのは時間の問題となっており、増援はこれが最後となった。それでも第110歩兵連隊は優勢なドイツ軍の攻撃に36時間も耐え続けたが、市街に突入した装甲教導師団の戦車が、連隊指揮所の置かれたホテルに零距離で砲撃を浴びせてきたため、連隊長のフラーは指揮所から脱出して後方の部隊に合流を目指したが、途中でドイツ軍の捕虜となってしまった。連隊長を失った後も各拠点は頑強に抵抗したが、12月18日になってまずはホージンゲンが降伏した。クレルヴォーでは連隊長を失った連隊本部の将兵が、クレルフ川の橋を望むクレルヴォー城(英語版)に立て籠もって最後まで抵抗したが、城壁に戦車の徹甲弾で大きな穴をいくつもあけられて城が炎上すると「ドイツ軍の戦車と歩兵に包囲されている。さらに多くの戦車と歩兵がクレルヴォーを通過して北進中である」と打電したのち降伏した。第110歩兵連隊はこれで壊滅したが、その犠牲によって40時間以上もドイツ軍の足止めに成功し、ドイツ軍の進撃計画は大きく狂うこととなった。
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