サルの研究
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「ハリー・フレデリック・ハーロー」の記事における「サルの研究」の解説
1930年にハーローはウィスコンシン大学マディソン校に来て、その後スタンフォード大学で、カルバン・ストーンとルイス・ターマンを含む著名な研究者数人の指導の下で博士号を取得した。彼は人間以外の霊長類研究から経歴を始めた。彼はヘンリー・ビラス動物園(Henry Vilas Zoo)で霊長類らと一緒に働いた。そこで彼は、学習、認知および記憶を研究するためにウィスコンシン総合試験装置(Wisconsin General Testing Apparatus)(WGTA)を開発した。ハーローが一緒に働いていたサルらが彼の諸試験のための諸戦略を開発していることを発見したのは、これらの研究を通してであった。ハーローは、後に学習セット(learning sets)として知られるようになるものを、「学習することを学習する」("learning to learn")と説明した。 ハーローはこれらの学習セットの開発を研究する目的で、発達中の霊長類へのアクセスを必要としたために、1932年にアカゲザルの繁殖コロニーを設立した。ハーローは研究の性質のために、幼児霊長類への定期的なアクセスを必要としていたために、保護する母親とではなく保育園で、飼育することを選んだ。母親の剥奪とも称されるこの代替飼育技術は、こんにちまで非常に物議をかもしており、霊長類の幼少期の逆境のモデルとして、さまざまな形で、使用されている。 幼児アカゲザルの研究と世話は、ハーローにさらに霊感を与え、最終的に彼の最も有名な実験のいくつかにつながった――代理母の使用。ハーロー、彼の学生ら、同時代人ら、そして仲間らはすぐに彼らの幼いサルの肉体的必要を世話する方法を学習したけれども、保育園で育てられた乳児らは、母親で育てられた仲間らとはたいへん異なったままでいた。心理的学的に言えば、これら幼児は少し奇妙であった――彼らは隠士的であり、明確な社会的欠陥があり、布おむつにしがみついていた。同時に逆構成では、母親とだけで遊び仲間のいない状態で育っていた赤子らは、恐怖あるいは攻撃性の兆候を示した。 ハーローはおむつの柔らかい布への愛着と、母親の姿の欠如と相関する心理的変化に気づき、母-子の絆を調査しようとした。この関係は、20世紀前半に絶えず精査されていた。バラス・スキナーと行動主義者らは、子供の発達、彼らの関係の性質、および母子間の物理的接触の衝撃における母親の重要性の議論においてジョン・ボウルビィを仲間に入れた。 これら研究は、世界保健機関が後援した1950年のジョン・ボウルビィの研究と報告「"Maternal Care and Mental Health"」によって動機づけられた。ボウルビィはその中で、制度化が子どもの発達に及ぼす影響と、母親から離れたとき子どもが経験する苦痛に関する以前の研究をレビューした、たとえばルネ・スピッツ(René Spitz)、そしてさまざまな設定で育てられた子供らに関する彼自身の調査。1953年に、彼の同僚ジェームズ・ロバートソン(James Robertson)は母親分離のほぼ即時な影響を示しながら、『A Two-Year-Old Goes to Hospital』というタイトルの物議を醸す短いドキュメンタリー映画を制作した。ボウルビィの報告は、ロバートソンのフィルムと相まって、ヒトとヒト以外の霊長類の発達における主介護者の重要性を示した。ボウルビィは、強い母子関係の発展の基礎としての摂食における母親の役割を強調しなかったが、しかし、彼の結論は多くの議論を生んだ。ハーローが代理らとの研究で取り組んだのは、母親のケアにたいする実証された必要の背後にある理由に関する議論であった。乳児らとの身体的接触は彼らの発達に有害であると考えられたし、この見解は国じゅうの無菌な無接触な保育園につながった。ボウルビィは、母親は、子供の発達と精神的健康にポジティブに影響する独特の絆を含む、食べ物以上のものを乳児に提供していると主張しながら、意見を異にした。 ハーローは論争を調査するために、針金と木からアカゲザルの乳児のために無生命な代理母を作成した。それぞれの乳児は特定の母親に愛着を持ち、その独特の顔を認識し、他の何よりもそれを好んだ。ハーローは次に、乳児らが裸-針金の母親または布で覆われた母親を好むかどうかを調査することを選択した。彼はこの実験において、服を着た母親と針金の母親を、2つの条件下で、乳児らに提示した。ある状況では、針金母親は食べ物の入ったびんを持っていて、布母親は食べ物を持っていなかった。またあるの状況では、布の母親がびんを持っていて、針金の母親は何も持っていなかった。 圧倒的に、幼児のマカクザルらは布母親にしがみついて時間を費やすことを選び好んだ。針金母親だけが栄養を与えることができたときでさえ、サルらはものを食べるためだけに彼女のもとを訪ねた。ハーローは、母親と乳児の関係には、ミルクよりもはるかに多くのものがあった、この「接触の快適さ」("contact comfort")は、幼いサルと子供たちの心理的発達と健康にとって本質的であった、と結論を出した。愛と母子の相互作用の重要性に関するボウルビィの主張に強い経験的な支持を与えたのは、この研究であった。 連続した実験は、乳児らは代理らを探索の拠点として、新奇で恐ろしい状況でも快適さと保護の源として使用した、と結論づけた。幼児らは「オープン・フィールド試験」("open-field test")と呼ばれる実験では、新奇な物体のある新しい環境に置かれた。乳児の代理母がいるときそれは彼女にしがみついたが、しかしその後おもいきって離れ探検した。もしおびえるならば、乳児は代理母のところに走り戻り、しばらくの間彼女にしがみついた後、ふたたびおもいきって外に出た。それらサルは代理母の存在のないままでは、恐怖のために麻痺し、集まりボール1つになり、親指をしゃぶった。 「恐怖試験」("fear test")では、乳児らは恐ろしい刺激、しばしば音を立てるテディ・ベアを提示された。それら乳児は母親がいないままでは、身をすくめその物体を避けた。しかしながら、その乳児は代理母がいるときは、大きな恐怖反応を示さず、しばしば装置に接触した――それを探索ながら攻撃しながら。 別の研究では、針金母親または布母親のいずれか一方のみで育てられた、差別化された効果を調べた。両方のグループともに同じ割合で体重が増えたが、しかし、針金母親で育てられたサルはしばしば下痢に苦しみながら、便が柔らかく、ミルクを消化するのに苦労した。まだ広く受け入れられているこの行動のハーローの解釈は、接触の快適さの欠如はサルにとって心理的にストレスを起こすということであったし、消化器系の問題はそのストレスの生理学的症状である。 これらの調査結果の重要さは、子供を甘やかしてだめにするのを避けようとして身体的接触を制限するまたは回避するという伝統的な教育的アドバイスと、感情は無視できるほどだという心理学の支配的な行動主義学派の主張との両方に矛盾した。食べ物を与えることが、母子の絆を形成する上で最も重要な要素であると考えられていた。しかしながら、ハーローは、看護はそれが提供する親密な身体的接触ゆえに母子の絆を強める、と結論づけた。彼は自分の実験を愛の研究として説明した。彼はまた、接触の快適さは母親か父親のいずれか一方によって提供されるとも信じた。この考えは、今や広く受け入れられているけれども、愛の諸研究に関する諸考えや諸価値観を刺激するという点で当時は革命的であった。 ハーローの最後の実験のいくつかは、うつ病の研究のための動物モデルを作成するために社会的剥奪を調査した。この研究はいちばん物議をかもしたものであり、さまざまな期間の乳児と少年のマカクザルの隔離が含まれていた。隔離されたサルらは、仲間のグループに導入されたまたは再導入されたとき社会的欠陥を示した。彼らは同種のものとどのように相互作用するかその方法がわからないように見え、ほとんどグループから離れていて、サルの発育中、そして比較的には、子供らにおいて、同種のものと相互作用する能力を形成する上での社会的相互作用と刺激の重要性を実証した。 ハーローの研究の批判者らは、しがみつくことは若いアカゲザルの生存の問題であり、しかしヒトのではないと述べており、彼の結論は、ヒトに適用されるとき接触の快適さの重要性を過大評価し、看護の重要さを過小評価していることを示唆している。 ハーローは、1958年8月31日にワシントンD.C.で開催されたアメリカ心理学会の第66回年次大会への演説のタイトル「"The Nature of Love"」の中で、これらの実験の結果を最初に報告した。
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