サイケデリック体験の伝道師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 19:16 UTC 版)
「ティモシー・リアリー」の記事における「サイケデリック体験の伝道師」の解説
1963年ジワタネホ、リアリーにハーバードから解雇されたという知らせが届いたが、これはすでに退職していたリアリーの信頼を落とすためであった。ジワタネホのリアリーの運営するホテルでは、客は週1回LSDによるセッションを行っていたが、観光ビザなので商売はできないということで退去命令がきた。命令を告げに来た警官が、兄が知事のミチョアカン州でホテルやりなさいと催促し、知事が大統領を説得するという話になったが、大統領はすでにCIAから連絡を受けていたので計画は破綻した。 ドミニカ共和国カリブ島に共同体を作った人物が、アメリカの企業を擁護する保守党に人々はうんざりしているから、労働党が旅行センターをやりたがっていると連絡があり、リアリーは島へ向かった。IFIFの会員が急増しているからメキシコでの計画をそのままやりたいたいと申し出たが、CIAと思われる人物が知事に連絡したためまた国外追放される。次に送られたアンティグア・バーブーダからも国外追放と続く。 1963年9月、出資者のペギーは弟でアンドリュー・メロン家の跡取りのビリーにLSDを与えたことで、ニューヨーク州のミルブルックのメロン家の別荘に研究センターを置くことになり、国中にセンターを置くIFIFはを中止して、『ガラス玉演戯』からとった「カスタリア協会」を名乗り、今度はひっそりとやることにした。みんなで屋敷に移り住み、意識についての論文を書き、週1回のLSDのセッションを行い、神秘思想家のゲオルギイ・グルジエフのドラッグ体験の追体験を試みていた。 こうした活動は、人々に現実はフィクションであると思わせることに成功し、画一的な価値観をもつ社会に異議を申し立て、意識の自由を求めることは、平和や反戦、人種の平等、エコロジーといった活動と絡まっていった この頃、メアリー・ピンチョットが権力者にセッションを行ったという連絡と、オルダス・ハクスリーが危篤状態になったという連絡があった。リアリーは、ハクスリーに『チベット死者の書サイケデリック・バージョン』に基づいてLSDのセッションをしてくれと頼まれたが、死の際にハクスリーの妻にやってもらうことにした。 1963年、11月22日、ケネディ大統領暗殺事件のニュースがあり、その夜ハクスリー死亡の知らせもくる。12月1日、メアリー・ピンチョットが、ジョン・F・ケネディがあまりに変化してしまったので奴らは制御できなくなったと打ちひしがれて連絡をしてくる。(すぐに、新聞にケネディー大統領夫人の友人であるメアリーが射殺された記事が載る。ケネディはドラッグを厚生省の管理下に置こうとしていた。1975年に、ジョン・F・ケネディとメアリー・ピンチョットが情事を行っていたという記事が出る) 1964年、双子のトミーとビリーの誕生日に催されたカーニバルで、リアリーはモデルのナネット(本名Nena von Schlebrügge)と出会い、別の日には『カッコーの巣の上で』の作者でカリフォルニア州でLSDの実験を行っていたケン・キージーの一行がバスで会いに来たので、これに触発されて視野を広げるためメンバーに世界旅行を提案し、リアリーもナネットと結婚して世界旅行をすることになった。インドで、『チベット死者の書-サイケデリック・バージョン』を一緒に書いた研究メンバーのラルフ・メッツナーと合流し、『チベット死者の書』の翻訳者エヴァンス・ヴェンツが建てた家にて、チベット仏教の僧であるラマ・ゴビンダと過ごすが、リアリー夫婦の仲は冷めていき離婚する。 アメリカに戻り、音と光でLSD体験を起こすというワークショップを行っていた。ある日、マリファナの所持で逮捕され、裁判で闘うことにした。また別の日には、ジョージ・ゴードン・リディによって突然逮捕されたが、証拠もないため違法とされた。マーシャル・マクルーハンにメディア戦略について助言されて、「Turn on, tune in, drop out(ターン・オン、チューン・イン、ドロップ・アウト)」というスローガンを思いつき、サンフランシスコで開催された「ヒューマン・ビーイン」などで宣言した。 合衆国政府は1960年代後半からLSDを麻薬と認定し違法使用を禁止する方針を打ち出した。それに対し精神を解放する媒体としてLSDを擁護し続ける。 1968年ごろから、カウンター・カルチャーによる反戦運動が起こり、ケネディ大統領の後に戦争路線をとるリンドン・ジョンソン大統領に反対していた。リアリーもこれを支持した。4月に反戦運動を行うマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺され、6月には大統領選に出馬していたJ・F・ケネディの弟のロバート・ケネディが銃殺される。この暴力的な世界を離れるために農場の広がる場所へ引っ越す。クリスマスに、警官に尋問され突然「逮捕する」と言ってから、警官は自分のポケットからマリファナを出した。逮捕されたが1時間で保釈され、裁判を起こすことにする。 最高裁でマリファナ法が違憲とされたので、様々なメディアが取材に来る。ここでリアリーはカルフォルニア知事戦に出馬すると宣言した。キャンペーンソングを作ることにする。ジミ・ヘンドリックスがベースギター、スティーブン・スティルス、ジョン・セバスチャン、バディ・マイルズが参加し『You Can Be Anyone This Time Around』として発売される。次の日、ジョン・レノンとオノ・ヨーコから電話。モントリオールのクイーンエリザベス・ホテルでベッド・インというイベントを行い「平和を我等に」という曲を収録するので手伝ってほしいと頼まれる。次の日、ジョン・レノンが応援ソングを作ってくれることになり「カム・トゥゲザー」をつくった。
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