サイケデリック・ロック期(1966年 - 1969年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 15:21 UTC 版)
「ソフト・マシーン」の記事における「サイケデリック・ロック期(1966年 - 1969年)」の解説
4人組で本格始動したバンドは、ロンドンのUFOクラブを拠点にヨーロッパ各地で精力的に演奏活動を行いつつ独自の音楽を模索していく。その音楽のかたちは、いわゆるサイケデリック・ポップとも呼べるものだった。ロンドンのサイケデリック・シーンで注目を浴びるようになった彼等は同じくUFOクラブを中心に活動していたピンク・フロイドやジミ・ヘンドリックスらとも交流を持つようになり、ステージを共にすることもあった。1967年、パリ公演からの帰途、アレンがイギリスへの入国許可が下りずバンドから離脱(麻薬の保持等の理由が取り沙汰されたが、実際はビザの期限切れが理由。彼はそのままパリに留まり、スマイスと共に後にゴングへと発展するプロジェクトを立ち上げる)。 この後、3人となったメンバーはギタリストを補充せずキーボード・トリオとして活動する。アレンの抜けた穴を埋めるためであろうか、ラトリッジのかねてからのジャズ志向のためか、この頃から彼の弾くオルガンの音をファズをかけて歪ませるようになる。このような音色はいわゆるサイケデリックに分類されていた彼等の当時の音楽に、モノクロームな色彩を与えるようになる。これがカンタベリー系と呼ばれる音楽の一つの指標ともなっていく。 3人は、ジミ・ヘンドリックスのアメリカ長期ツアーに帯同。ツアー途中の1968年、ニューヨークにてデビュー・アルバム『ソフト・マシーン』を制作する。この頃のステージで、後にポリスのメンバーとなるギタリスト、アンディ・サマーズをアレンの代役に起用している。デビュー・アルバムは評判が良く、レーベルは次回作の制作を打診するが、当のメンバーは余りにも長きにわたったツアーに疲れ果て、バンドはほとんど解散状態にあった。そんな状況に嫌気のさしたエアーズは、地中海に浮かぶバレアレス諸島のイビサ島へと移住して脱退する。 活動再開を期したメンバーは、ワイルド・フラワーズを辞めた旧友ヒュー・ホッパーを新しいベーシストに加えトリオ編成となり、1969年にセカンド・アルバム『ヴォリューム2』を制作(ホッパーの兄、ブライアンもホーン奏者としてアルバムに参加)。ジャズ志向が強く、実験音楽などにも造詣の深いアヴァンギャルドな感性の持ち主・ホッパーの加入により、バンドはアレン=エアーズ主導時代のサイケ・ポップ路線から、ホッパー=ラトリッジ主導のジャズ・ロック路線へと変革を遂げていく。
※この「サイケデリック・ロック期(1966年 - 1969年)」の解説は、「ソフト・マシーン」の解説の一部です。
「サイケデリック・ロック期(1966年 - 1969年)」を含む「ソフト・マシーン」の記事については、「ソフト・マシーン」の概要を参照ください。
- サイケデリック・ロック期のページへのリンク