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ゲオルク・ショルティ

(ゲオルグショルティ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/16 05:05 UTC 版)

ゲオルク・ショルティ
Georg Solti
ゲオルク・ショルティ
基本情報
出生名 Stern György
生誕 (1912-10-21) 1912年10月21日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国ブダペスト
死没 (1997-09-05) 1997年9月5日(84歳没)
フランスアンティーブ
学歴 リスト音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者ピアニスト
活動期間 1938年 - 1997年
レーベル デッカ
公式サイト Sir Georg Solti

ゲオルク・ショルティ英語: Sir Georg Solti, KBE1912年10月21日 – 1997年9月5日)は、ハンガリー出身で、ドイツ、のちイギリス国籍で活躍した指揮者ピアニストゲオルグ・ショルティとも書かれる。ユダヤ系ハンガリー語の発音に基づく表記はショルティ・ジェルジSolti György [ˈʃolti ˌɟørɟ])。ビヨンセが抜くまで[1][2][3]、『グラミー賞』を31回受賞(74回ノミネート)しており[4]、受賞数、ノミネート数ともに世界一であった[5]

人物・来歴

ハンガリーブダペスト生まれ。シュテルン家の次男として生まれ、生まれた時の姓名はシュテルン・ジェルジュ(Stern György [ˈʃtern ˌɟørɟ])。父親はシュテルン・モーリツ (Stern Móric [ˈʃtern ˌmoːriʦ])、母親はローゼンバウム・テレーズ (Rosenbaum Teréz [ˈroːzenbɒum ˌtɛreːz])。写真家のモホリ=ナジ・ラースロー再従兄弟にあたる。作曲家ジョゼフ・コズマ(コズマ・ヨージェフ)も親戚である。父親はハンガリーで民族主義が高まるのを感じて、子供らの将来のためにユダヤ的なシュテルンという姓をハンガリー風のショルティに改姓した。

演奏スタイル

音楽評論家吉田秀和は、ショルティがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した交響曲第3番 (ベートーヴェン)の録音の第二楽章について、「こういう音楽を大真面目でやれるというには、何か一種の反知性的な気質か、さもなければ劇場的性格か、あるいは、そういうことを超越した本当に崇高なまでの精神的態度か、何かそういうものが要るのではなかろうか?そうして、ショルティには、この中で劇場的なもの theatrical な効果というものに対する本能が極度に強く発達しているのではなかろうか?」と述べ、次にリヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』の録音を挙げた上で「ショルティほどに、無慚な手つきでこういう響きを引き出している指揮者は、ほかに誰がいるのだろうか?」と、その劇的表現力を評している[6]

また作曲家の諸井誠は、シカゴ交響楽団を指揮した交響曲第9番 (ブルックナー)の録音を「究極のブルックナー」と評している[7]

平和への祈り

ショルティは、1938年3月11日、ブダペスト歌劇場の「フィガロの結婚」で指揮者としてのデビューを飾ったが、ユダヤ系だったこともあって、再び指揮台に立つ機会はなかった。歌劇場の後援会長からルツェルン音楽祭に参加しているトスカニーニを頼ってニューヨークへ渡ることを勧められ、ルツェルンでトスカニーニに約束まではもらえたが、戦争が始まってしまったことと、トスカニーニの妻から貰った所持金が底をついてしまったことなどから実際にはかなえられず、そのままスイスで生活を送ることとなる。以後、戦争が終わるまでは家族(父親は1943年に病死している)と再会していない。青年期が第二次世界大戦の真っ只中と重なり、またユダヤ系であることから、ショルティの生涯は戦争に翻弄され続けた。この経験から、政治家もまた、音楽家と同様に思想の違いを超えて平和を実現することが必ずできるはずだという信念を抱き、1992年にバッキンガム宮殿にてチャールズ3世(当時王太子)とダイアナ妃の主催で開かれたショルティ80歳記念演奏会の場で、「音楽が持つ、平和の使節としての特別な力」を体現化する「ワールド・オーケストラ・フォア・ピース」の構想を発表した[8]

エピソードなど

戦後は自身の名前(Georg)をドイツ風で通し、1972年までドイツ国籍を持っていたショルティは、イギリスに帰化したのちも「ドイツ語が、思い通りのことを一番うまく言える言語」「マジャール語は忘れてしまった」として、ヘルマン・ヘッセトーマス・マンを原書で愛読する生活を送っていた[9]。同名かつ同郷で、やはり壮年期にドイツ風名乗りを行っていたジョージ・セルと異なり、ショルティは帰化後も綴りを英語風に改めることはしていない[10]。妻は英国人である。

初来日は1963年ロンドン交響楽団との演奏旅行であった。当時最晩年だったピエール・モントゥーが同行していたため、その影に隠れてさほど脚光を浴びることはなかった。このほかにアンタル・ドラティも同行していた。その後は、1994年のウィーン・フィルとの最後の来日まで、たびたび日本を訪れた。

演奏会・録音ともに、ウィーン・フィルとは頻繁に共演している。デッカはショルティのダイナミックな指揮に魅了され、『指環』の全曲録音を依頼した。

ショルティによって、シカゴ交響楽団は今日の世界的評価を獲得した。シカゴ交響楽団はショルティ赴任以前にフリッツ・ライナーによる第1期黄金時代を謳歌していたものの、ライナー辞任後は楽団の内紛で低迷してしまっていた。初のヨーロッパ公演を成功させたショルティとシカゴ交響楽団は、シカゴ市民に熱狂的に迎えられ、「シカゴはギャングの街からオーケストラの街になった」との評もあった。シカゴの野球解説者は、正確であることを「ショルティのよう」と喩えた。シカゴの電話帳の表紙を飾ったこともあり、市民から愛された指揮者であった。

ヨーロッパ大陸への客演はドイツ放送交響楽団が多く、晩年までミュンヘンシュトゥットガルトケルンには特に頻繁に客演していた。1990年代には、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生前にはあまり縁のなかったベルリン・フィルザルツブルク音楽祭にも登場するようになる[11]

代表的な録音

録音は膨大であり、そのほとんどが専属契約を結んでいたデッカ(Decca)レーベルの録音である。オーケストラは、手兵シカゴ交響楽団のほか、ウィーン・フィル、ロンドン・フィル、ロンドン交響楽団など、多岐にわたる。

ワーグナーの『さまよえるオランダ人』以降の10大オペラを全てスタジオ録音した数少ない指揮者の一人でもある。なかでも最大の偉業は、ジョン・カルショー率いるデッカチームとの「指環」全曲録音であろう。ステレオ録音で長大な楽劇を遺した功績は、グラモフォン誌において20世紀最大の録音事業と賞賛された。往年の名歌手の歌唱、ウィーン・フィルの響きを伝える記録としても貴重である。

シカゴ交響楽団との録音

(すべてステレオ録音、レーベルはデッカ)

  • J.S.バッハ:マタイ受難曲(テ・カナワ〈sop〉、オッター〈Alt〉、ブロホヴィッツ〈Ten〉、ベーア〈バス〉、ロルフ・ジョンソン〈Ten〉、クラウゼ〈Bas〉、シカゴ交響合唱団/1987)、ミサ曲ロ短調(ロット〈sop〉、オッター〈Mez〉、ブロホヴィッツ〈Ten〉、シメル〈Bar〉、ハウエル〈BasBar〉、シカゴ交響合唱団/1990ライヴ)、組曲第3番~Air(1974)
  • R.シュトラウス:ツァラトゥストラはかく語りき(1975)、ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら(1975)、ドン・ファン(1972)
  • ウェーバー:「オベロン」序曲(1974)
  • ヴェルディ:オテロ(テ・カナワ〈sop〉、パヴァロッティ〈Ten〉、ロルフ・ジョンソン〈Ten〉、ヌッチ〈Bar〉、シカゴ交響合唱団/1991)、レクイエム(プライス〈sop〉、ベイカー〈Mez〉、ヴルケッティ〈Ten〉、ヴァン・ダム〈Bas〉、シカゴ交響合唱団/1977)、合唱曲集(シカゴ交響合唱団/1989)、聖歌四篇(シカゴ交響合唱団/1978)
  • エルガー:エニグマ変奏曲(1974)、演奏会用序曲「コケイン」(1976)
  • シェーンベルク:モーゼとアロン(マツーラ〈Bas・Bar〉、ラングリッジ〈Ten〉、ハウグランド〈Bas〉、ボニー〈sop〉、シカゴ交響合唱団、グレン・エリン少年合唱団員/1984)、管弦楽のための変奏曲(1975)
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第8番(1989)、交響曲第10番(1990ライヴ)、交響曲第13番「バビ・ヤール」(アレクサーシキン〈Bas〉、アンソニー・ホプキンス〈朗読〉、シカゴ交響男声合唱団/1995)、交響曲第15番(アレクサーシキン〈Bas〉/1997)
  • スーザ:星条旗よ永遠なれ(1986)
  • スタッフォード・スミス:アメリカ国歌「星条旗」(1986)
  • ストラヴィンスキー:春の祭典(1974)、ペトルーシュカ(1993)、3楽章の交響曲(1993)、カルタ遊び(1993)、交響曲ハ調、詩篇交響曲(1997)
  • ダウンズ:がんばれ、シカゴ・ベアーズ(1986)
  • チャイコフスキー:交響曲第4番(1984)、交響曲第5番(1987)、交響曲第5番(1975)、交響曲第6番「悲愴」(1976)、幻想序曲「ロメオとジュリエット」(1986)、組曲「くるみ割り人形」(1986)、組曲「白鳥の湖」(1988)、大序曲「1812年」(1986)、ピアノ協奏曲第1番(シフ〈ピアノ〉/1985)
  • ティペット:交響曲第4番(1979)、チャールズ皇太子の誕生日のための組曲(1981)、ビザンティウム(1991)
  • デル・トレディチ:最後のアリス(ヘンドリックス〈sop〉/1980)
  • ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」(1983)
  • ドビュッシー:海(1991)、海(1976)、牧神の午後への前奏曲(1976)、牧神の午後への前奏曲(1990)、夜想曲(1990)
  • ドホナーニ:童謡主題による変奏曲(シフ〈ピアノ〉/1985)
  • ハイドン:オラトリオ「四季」(ツィーザク〈sop〉、ハイルマン〈Ten〉、パーペ〈Bas〉、シカゴ交響合唱団/1992ライヴ)、オラトリオ「天地創造」(ツィーザク〈sop〉、リッペルト〈Ten〉、シャリンガー〈Bar〉、パーペ〈Bas〉、シカゴ交響合唱団/1993)、オラトリオ「天地創造」(バロウズ〈sop〉、ヴォーラーズ〈Ten〉、グリーンバーグ〈sop〉、ニムスゲルン〈Bas〉/1981)
  • バルトーク:弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽(1989)、管弦楽のための協奏曲(1981)、「中国の不思議な役人」組曲(1990)、ヴァイオリン協奏曲第1番(チョン・キョンファ〈Vn〉/1983)、ディヴェルティメント(1990)、舞踏組曲(1981)
  • ブラームス:交響曲全集(第1番~第4番〈1978・1979〉)、大学祝典序曲(1978)、悲劇的序曲(1978)、ハイドンの主題による変奏曲(1977)、ドイツ・レクイエム(テ・カナワ〈sop〉、ヴァイクル〈Bar〉、シカゴ交響合唱団/1978)
  • ブルックナー:交響曲第0番(1995ライヴ)、交響曲第1番(1995)、交響曲第2番(1991)、交響曲第3番(1992)、交響曲第4番「ロマンティック」(1981)、交響曲第5番(1980)、交響曲第6番(1979)、交響曲第7番(1986)、交響曲第8番(1990ライヴ)、交響曲第9番(1985)
  • プロコフィエフ:交響曲第1番「古典」(1982)、ロメオとジュリエット(抜粋)(1982)
  • ベートーヴェン:交響曲全集(第1番~第9番/ローレンガー〈sop〉、ミントン〈Mez〉、バロウズ〈Ten〉、タルヴェラ〈Bas〉、シカゴ交響合唱団/1972~74)、交響曲全集(第1番~第9番/ノーマン〈sop〉、ルンケル〈Alt〉、シュンク〈Ten〉、ゾーティン〈Bas〉/1986~1990)、「エグモント」序曲(1972)、「エグモント」序曲(1989)、「コリオラン」序曲(1974)、「レオノーレ」序曲第3番(1972)、「レオノーレ」序曲第3番(1988)、ピアノ協奏曲全集(第1番~第5番「皇帝」/アシュケナージ〈ピアノ〉/1971~72)、フィデリオ(ベーレンス〈sop〉、ホフマン〈Ten〉、ゾーティン〈Bas〉、アダム〈Bas・Bar〉、シカゴ交響合唱団/1979)、ミサ・ソレムニス(ポップ〈sop〉、ミントン〈Mez〉、ウォーカー〈Ten〉、ハウエル〈Bas〉、シカゴ交響合唱団/1977)
  • ベルク:ヴァイオリン協奏曲(チョン・キョンファ〈Vn〉/1983)
  • ベルリオーズ:幻想交響曲(1972)、幻想交響曲(1992ライヴ)、ファウストの劫罰(フォン・シュターデ〈Mez〉、リーゲル〈Ten〉、ヴァン・ダム〈Bas〉、キング〈Bas〉、シカゴ交響合唱団/1981)、序曲「宗教裁判官」(1974)
  • ヘンデル:メサイア(テ・カナワ〈sop〉、イェヴァング〈Alt〉、ルイス〈Ten〉、ハウエル〈Bas〉、シカゴ交響合唱団/1984)
  • マーラー:交響曲第1番「巨人」(1983)、交響曲第2番「復活」(ブキャナン〈sop〉、ザーカイ〈Alt〉、シカゴ交響合唱団/1980)、交響曲第3番(デルネシュ〈sop〉、グレン・エリン少年合唱団、シカゴ交響女声合唱団/1982)、交響曲第4番(1983)、交響曲第5番(1990ライヴ)、交響曲第5番(1970)、交響曲第6番(ミントン〈Mez〉/1970)、交響曲第7番(1971)、交響曲第8番「千人の交響曲」(ハーパー〈sop〉、ポップ〈sop〉、オジェー〈sop〉、ミントン〈Mez〉、ワッツ〈Alt〉、コロ〈Ten〉、シャーリー=カーク〈Bar〉、タルヴェラ〈Bas〉、ウィーン少年合唱団、ウィーン楽友協会合唱団、ウィーン国立歌劇場合唱団/1971)、交響曲第9番(1982)、大地の歌(ミントン〈Mez〉、コロ〈Ten〉/1972)、さすらう若人の歌(ミントン〈Mez〉1970)、歌曲集「子供の不思議な角笛」から(ミントン〈Mez〉/1970)
  • ムソルグスキー:展覧会の絵(1980)、「ホヴァンシチナ」~前奏曲、死の歌と踊り(1997)
  • メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」(1985)、交響曲第4番「イタリア」(1985)
  • モーツァルト:交響曲第38番(1982)、交響曲第39番(1982)
  • ラヴェル:ボレロ(1976)、クープランの墓(1980)
  • リスト:ファウスト交響曲(1986)、交響詩「前奏曲」(1992ライヴ)
  • ロッシーニ:「セビリアの理髪師」序曲(1972)
  • ワーグナー:さまよえるオランダ人(ベイリー〈Bas〉、マーティン〈sop〉、コロ〈Ten〉、タルヴェラ〈Bas〉、クレン〈Ten〉、シカゴ交響合唱団/1976)、ニュルンベルクのマイスタージンガー(ヴァン・ダム〈Bar〉、オピー〈Bas〉、パーペ〈Bas〉、ヘップナー〈Ten〉、マッティラ〈sop〉、シカゴ交響合唱団/1995ライヴ)、序曲と前奏曲集(1972-1977)
  • ハンガリー曲集(1993ライヴ)
  • ケルビーニ:レクイエム ハ短調(シカゴ交響合唱団/ 1985)

称号

大英帝国勲章ナイト・コマンダー(KBE)など。

参考文献

  • Culshaw, John (1967). Ring Resounding. London: Secker & Warburg. ISBN 0-436-11800-9.
  • Culshaw, John (1982). Putting the Record Straight. London: Secker & Warburg. ISBN 0-436-11802-5.
  • Glossop, Peter (2004). Yorkshire Baritone. Oxford: Guidon. ISBN 0-9543617-3-3.
  • Goodman, Lord; Lord Harewood (1969). A Report on Opera and Ballet in the United Kingdom, 1966–69. London: Arts Council of Great Britain. OCLC 81272.
  • Haltrecht, Montague (1975). The Quiet Showman – Sir David Webster and the Royal Opera House. London: Collins. ISBN 0-00-211163-2.
  • Lebrecht, Norman (2000). Covent Garden: The Untold Story: Dispatches from the English Culture War, 1945–2000. London: Simon and Schuster. ISBN 0-684-85143-1.
  • Levy, Richard S. (ed) (2005). Antisemitism: a historical encyclopedia of prejudice and persecution, Volume 1. Santa Barbara: ABC-CLIO. ISBN 1-85109-439-3.
  • Morrison, Richard (2004). Orchestra – The LSO. London: Faber and Faber. ISBN 0-571-21584-X.
  • Osborne, Richard (1998). Herbert von Karajan. London: Chatto and Windus. ISBN 1-85619-763-8.
  • Peck, Donald (2007). The Right Place, the Right Time: Tales of Chicago Symphony Days. Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press. ISBN 0-253-11688-0.
  • Robinson, Paul (1979). Solti. London: Macdonald and Jane's. ISBN 0-354-04288-2.
  • Sackville-West, Edward; Desmond Shawe-Taylor (1955). The Record Guide. London: Collins. OCLC 474839729.
  • Schwarzkopf, Elisabeth (1982). On and Off the Record: A Memoir of Walter Legge. London: Faber and Faber. ISBN 0-571-11928-X.
  • Solti, Georg; Harvey Sachs (1997). Solti on Solti. London: Chatto and Windus. ISBN 0-7011-6630-4.
  • ゲオルグ・ショルティ 『ショルティ自伝』、木村博江訳、草思社、1998。ISBN 4794208537

脚注

注釈・出典

  1. ^ 【グラミー賞】ビヨンセ、歴代最多32度目受賞の快挙”. ORICON NEWS. 2023年2月6日閲覧。
  2. ^ グラミー賞、ビヨンセが歴代最多受賞数を更新 宅見さんらも受賞」『Reuters』2023年2月6日。2023年2月6日閲覧。
  3. ^ 第65回グラミー賞にて6部門ノミネート! | ビヨンセ | ソニーミュージックオフィシャルサイト”. ビヨンセ | Sony Music. 2023年2月6日閲覧。
  4. ^ Georg Solti” (英語). GRAMMY.com (2014年3月17日). 2019年2月4日閲覧。
  5. ^ Who Has The Most GRAMMYs?” (英語). GRAMMY.com (2017年2月13日). 2019年2月4日閲覧。
  6. ^ 吉田秀和『世界の指揮者』新潮文庫、1982年、173-185頁。
  7. ^ 交響曲第9番 ゲオルグ・ショルティ&シカゴ交響楽団 HMV
  8. ^ ワールドオーケストラフォアピースについて - ワールドオーケストラフォアピース公式サイト
  9. ^ レコード芸術』1977年6月別冊「ゲオルグ・ショルティとシカゴ交響楽団」に『ニューヨーカー』誌から転載されたウィンスロップ・サージェントのリポート
  10. ^ 他方、他者による読みに関しては、ウィルヘルム→ウイリアム、シャルル→チャールズなど大陸ヨーロッパの人名も綴りを無視して英語読みすることが多い英米人は、例えばBBC Pronouncing Dictionary of British Names では「ジョージ・ショルティ」という発音を行っている。
  11. ^ 中川右介『カラヤン帝国興亡史』によると、カラヤンがウィーン国立歌劇場の音楽監督だった頃に『ニーベルングの指環』の全曲録音がなされたことから、カラヤンサイドがことさらショルティを意識していたようである。ショルティ自身は常々カラヤンのことを賞賛し、急死直後に掲載された雑誌『音楽の友』のインタビューでは「晩年のカラヤンとの関係は良好だった」とも語っている。ショルティの発言を裏づける事実として、1987年のザルツブルク音楽祭の折、自らの死期が近いことを悟っていたカラヤンは、ショルティに『影のない女』の再演を託したという。これを受け1992年、ゲッツ・フリードリヒによる演出のもと、ショルティ指揮でこのオペラは再演された。

関連項目

先代
ブルーノ・フォンデンホフ
フランクフルト歌劇場
フランクフルト・ムゼウム管弦楽団
音楽監督
1951年 - 1961年
次代
ロヴロ・フォン・マタチッチ
先代
エドゥアルト・ファン・ベイヌム
ロサンジェルス・フィルハーモニック
音楽監督(着任せず)
1962年(当初予定) -
次代
ズービン・メータ
先代
ジョルジュ・プレートル
(音楽監督)
パリ国立歌劇場
音楽顧問
1973年 - 1975年
次代
シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ
(音楽監督)

ゲオルグ・ショルティ

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ヨーゼフ・クリップス」の記事における「ゲオルグ・ショルティ」の解説

ブダペスト歌劇場でコレペティトゥーアを務めていたゲオルグ・ショルティは、ユダヤ系ゆえに指揮者としての出世絶望的だったので、クリップスブダペスト客演した際、彼が音楽監督務めていたカールスルーエ助手として雇ってもらうよう懇願したクリップスショルティ仕事ぶり気に入り、ちょうどスタッフ欠員出ていたので即座に採用したその結果1932年10月ショルティカールスルーエへと渡り音楽監督クリップス第2指揮者ルドルフ・シュヴァーツ、第3指揮者ヨーゼフ・カイルベルトのもとで助手務めた。4人はみな若く30歳クリップス最年長であった。 しかし、ナチス機関紙フェルキッシャー・ベオバハター」は「クリップス東欧のユダヤ人歌劇場招いた」としてこれを非難しショルティ解雇求めたクリップスは、オーケストラ内にいる熱烈なナチ党員が自分排斥するために行なったものだと判断しつつ、ショルティ安全のために、ナチスがまだ勢力伸ばしていなかったマンハイムにて首席指揮者務めていた、ヨーゼフ・ローゼンシュトックのもとへ行くよう促したオーディション結果ショルティ採用となり、マンハイムへと移る準備をしていたが、1932年12月クリップスは「総選挙が終わるまでドイツから離れた方がいい」とショルティ説得しブダペストへ帰らせた。世の中落ち着いたらともにストラスブール音楽祭準備をしようと計画していたが、1933年1月30日アドルフ・ヒトラー首相に任命されると、カールスルーエクリップス、シュヴァーツ、そしてマンハイムローゼンシュトックはみな解雇となってしまう。その結果ショルティハンガリーに止まらざるをえず、ヤーノシュ・フェレンチクのすすめもあり再びブダペスト歌劇場仕事をするようになった。なお、のちにバイエルン国立歌劇場音楽監督となったショルティのもとに、カールスルーエクリップス排斥企んだオーケストラ団員が、自分採用してほしいという手紙送ったが、名前に見覚えがあったショルティはこれを無視した

※この「ゲオルグ・ショルティ」の解説は、「ヨーゼフ・クリップス」の解説の一部です。
「ゲオルグ・ショルティ」を含む「ヨーゼフ・クリップス」の記事については、「ヨーゼフ・クリップス」の概要を参照ください。

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