フランツ・ヴュルナーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 音楽家 > 作曲家 > ロマン派の作曲家 > フランツ・ヴュルナーの意味・解説 

フランツ・ヴュルナー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/08 21:17 UTC 版)

フランツ・ヴュルナー
Franz Wüllner
基本情報
生誕 1832年1月28日
出身地 プロイセン王国
ミュンスター
死没 (1902-09-07) 1902年9月7日(70歳没)
ドイツ帝国
プロイセン王国
ブラウンフェルス
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
ピアニスト
作曲家
音楽講師
担当楽器 ピアノ

フランツ・ヴュルナーFranz Wüllner, 1832年1月28日1902年9月7日 )は、ドイツ作曲家指揮者ピアニストリヒャルト・ワーグナーの『ラインの黄金』と『ワルキューレ』の初演を指揮した。ワーグナー自身はヴュルナーを気に入らず、ハンス・フォン・ビューローヘルマン・レーヴィの指揮を好んだ。父は古典文献学者のフランツ・ヴュルナードイツ語版で、弟に物理学者のアドルフ・ヴュルナー英語版、子にテノール歌手のルートヴィヒ・ヴュルナードイツ語版がいる[1]

略歴

プロイセン王国ヴェストファーレン州英語版ミュンスターに生まれる。デュッセルドルフのギムナジウムの校長を務めていた父フランツが1842年に亡くなると一家はミュンスターに戻り、ヴュルナーはそこでカール・アルノルトドイツ語版にピアノと作曲を師事した[1]1846年から1850年までミュンスターとフランクフルトアントン・シンドラーに師事し[1][2]、フランクフルトで1852年までフェルディナント・ケスラーに音楽理論を師事している[3][4]。1850年から1854年まで行った演奏旅行ではルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの後期ピアノソナタを弾いた[1]。1850年から翌1851年にかけての冬にはベルリンエドゥアルト・グレルジークフリート・デーンカール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲンとともに過ごし、演奏旅行で訪れたブリュッセルケルンブレーメンハノーファーライプツィヒでも研鑽を続けた[4]。1854年にはミュンヘンに移り、1856年ミュンヘン音楽大学のピアノ講師となった。1867年に創設されたミュンヘン音楽学校の合唱クラスを受け持ち、読譜と視唱、声楽の訓練のためのコールユーブンゲンソルフェージュ参照)を作成した[4]

1869年にビューローの後任でバイエルン国立管弦楽団の指揮者となった。彼は『ラインの黄金』(1869年)と『ワルキューレ』(1870年)初演の指揮を務めた。1876年、最初のバイロイト音楽祭ニーベルングの指環』全曲公演前のことだった。1877年ドレスデンカペルマイスターと芸術大学の音楽監督を務める。1884年ケルン音楽大学のディレクターとオーケストラの指揮。1864年からはニーダーライン音楽祭英語版で指揮を務めた。

ブラウンフェルスで没した。作曲家としても多くの作曲を残した。彼の門下生の中ではウィレム・メンゲルベルクエリー・ナイが知られている。

こんにち、日本で最もヴュルナーの名前を有名にしているのは、おそらく『コールユーブンゲン』であろう。視唱のための練習曲集であり、日本の音楽大学の多くはソルフェージュの入学試験でこれを取り入れている。

著作

脚注

参考文献

外部リンク

先代
フェルディナント・ヒラー
ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
音楽監督
1884年 - 1892年
次代
フリッツ・シュタインバッハ




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランツ・ヴュルナー」の関連用語

フランツ・ヴュルナーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランツ・ヴュルナーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフランツ・ヴュルナー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS