キャラとアイデンティティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:31 UTC 版)
「キャラ (コミュニケーション)」の記事における「キャラとアイデンティティ」の解説
キャラによるコミュニケーションの特色は、その場に応じて演じられるキャラは切り替わりうるという部分にある。宇野常寛は、個人のコミュニケーションの結果に応じて漸次上書きされていくような(しばしばケータイ小説にみられる)現実世界でのアイデンティティのあり方を断片型キャラクター的実存と呼び、(ライトノベルなどでみられる)一貫した自己像を保ち続けようとする全人格型キャラクター的実存と対比している。同様に、評論家の荻上チキは、一貫した自己像にもとづいて成長していこうというアイデンティティ型自己モデルではなく、臨機応変に適応スタイルを選択するキャラ型自己モデルが現代社会には適していると整理している。荻上チキによれば、個人は趣味・所属する部活・職業・学歴など様々な要素と関係したキャラをあらかじめ複数ストックしており、その中から適当ないくつかを「仕事での打ち合わせ」「プライベートでの友人との交遊」といった文脈に応じて適宜呼び出してコミュニケーションを行うという「キャラ分けニーズ」が高まっているのだという。 社会学者の土井隆義は、キャラを自分自身の中のゆるぎない自己イメージとしての内キャラと、周囲の状況(場の空気)に適応する形で演技的に振舞う外キャラの2つにわけて論じている。それによれば、「大きな物語」「超越的な他者」といったものが消失して人生の拠り所とすべき価値観・理想像が不透明になった現代社会(ポストモダン)では、アイデンティティの不安を無効化するために決して相対化されることのない準拠点として内キャラが必要とされる一方、(全体に共有されるような「大きな空気」はすでに崩壊しているため)状況に応じて様々に異なる「場の空気」に対応する必要性があり、そのためには一貫性のあるアイデンティティは邪魔になるので外キャラを用意することになるのだという。つまり、外キャラは他者と向き合うため、内キャラは自己と向き合うためのものといえる。 キャラが所属集団といった文脈によって使い分けられるということと、前述したようにキャラが「コミュニケーションを楽しむ」ために用いられていることを考えると、キャラとは(「共同社会」に対する)「利益社会化」 を表しているともいえる。「共同社会」とは(古代の氏族社会のように)血縁・地縁により人々が全人格的に結合され、個人が所属する集団を自由に選択できない社会を意味し、それに対する「利益社会」は仕事の達成などによる利益の共有というような紐帯により人々が断片的に結び付けられ、個人が所属する集団を自由に選択可能で流動性の高い社会を意味する。つまり、キャラ的人間関係とは「楽しさ」「思い出作り」といったことを目的とした利益の共有による紐帯を結ぼうとする利益社会と考えることができるのである。 アーヴィング・ゴッフマンはアイデンティティを「社会的アイデンティティ」(社会的な地位に関する属性など)と「個人的アイデンティティ」(親しい間柄でのみ了解されうるもの)の2つに分けて論じているが、若者が演じるキャラは社会的文脈によって与えられるものではないということを考えれば、「個人的アイデンティティ」の方に相当することになる。他方で、土井隆義が内キャラと呼んだような自分らしさの信念としてのキャラには、社会的に認められる存在になりたいという願望もみられるといえる。 精神科医の斎藤環は、キャラの使い分けの現象を解離性同一性障害の患者における交代人格のようなものだと述べている。解離性同一性障害の発祥事例自体は、欧米と比較して日本では低いとされているが、斎藤はこれを「キャラ化することによって病理から逃れている」と解釈できると述べている。その一方で日本におけるキャラ文化が別の問題を引き起こすこともあるとして、引きこもりを挙げている。斎藤は、1990年代末に行った若者を対象としたインタビュー調査の際にそのメンタリティを「引きこもり系/原宿系(コミュニケーション能力は低いが自己イメージは安定している」と「自分探し系/渋谷系(コミュニケーション能力は高いが自己イメージが不安定)」に大別したが、自己イメージが不明確であるぶんキャラを自在に操るのは「自分探し系」の者が得意とするものであり、「引きこもり系」の者はキャラのコントロールをうまくできないと整理できる。キャラの使い分けと引きこもりとの関係については、森真一もキャラ的人間関係に特有の役割を演じて周囲に合わせる(空気を読む)ということに後ろめたさを感じることが優等生的な引きこもりにつながると述べている。 若者が演じるキャラは、批評家の東浩紀が提示した「データベース消費」「動物化」といったキーワードと関連付けて言及されることがある。東浩紀は、主に日本のライトノベル・美少女ゲームなどのオタク系文化でのメディアミックス・二次創作の興隆に注目しながら、その文化圏における様々な情報を集積した「データベース」から適当にいくつかの個別的な要素を組み合わせる形でキャラクターが生成され、それらの登場する作品自体を消費しているようでいて実際にはその背後にあるデータベース(の要素)が消費の対象になっていると論じ、さらにオタクがデータベースから取り出された記号的な要素に「萌え」という脊髄反射的な反応を示すように他者を媒介した欲望を失って自己完結的な欲求のみを求めるような傾向を動物化と呼んだ。東浩紀自身は、「キャラを演じる」と表現されるのが(本項で述べているような)擬似人格としてのキャラであり、「キャラを立てる」という語で表現されるのが要素の組み合わせによって生じる偽者のアイデンティティとしてのキャラだと整理しているが、白田秀彰によれば若者が演じる社会的な文脈に依拠しない「仮想的キャラ」も、このデータベース消費論でいわれているように漫画・アニメなどのサブカルチャーにおいて蓄積されたキャラクター類型を参考にしそこから適当なものを呼び出すような形で生成されているという。社会学者の鈴木謙介は、その場で演じるキャラを決めるために対人関係のデータベースを参照しているという意味では、キャラの使い分けも(「対人関係への嗜癖」ではなく)データベースと自己を往復するだけの「自己への嗜癖」であると述べている。他方で太田省一は、他者との関係を伴わない個人的な欲求しか持たないという意味で、動物化した主体はキャラゲームからの離脱者であると述べている。ただし、彼らが好むコンテンツを消費する中では、個人的な範囲でキャラの操作や構築が行われており、キャラゲームが他者との媒介を含むレベルではなく個人のレベルに変化したともいえるという。
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