キャラとキャラクター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:31 UTC 版)
「キャラ (コミュニケーション)」の記事における「キャラとキャラクター」の解説
漫画評論家の伊藤剛は、漫画・アニメなどの物語(虚構)の登場人物という意味でのキャラクターを論じる際に、「キャラクター」と「キャラ」を区別することを提唱した。具体的には、物語の中で独自の個性・存在感を持って描かれるものを「キャラクター」とし、単純な線画で描かれ異なる文脈への越境可能性を持った(例えば二次創作を通じて別の環境へ移植されても同一性を失わない)ものを「キャラ」と呼んでいる。対人関係用の仮想人格としてのキャラについて論じられるときも、この伊藤のキャラクター論と結びつけて言及されることがある。 斎藤環は、スクールカーストものに数えられる小説『りはめより100倍恐ろしい』の解説において、作中に登場する様々な(本項で解説している意味での)「○○キャラ」の中に伊藤剛がいう意味での「キャラ」と「キャラクター」の両方が存在することを指摘している。具体的には、作中において「いじり」 の対象が流動的に入れ替わる描写を考えれば「いじられキャラ」は「キャラ」であり、隠蔽していた元オタクであるという過去が知られたとたんに対等な人間関係から疎外されるという描写を考えれば「オタクキャラ」は「キャラクター」である、というようになる。 評論家の海老原豊は、「キャラ」と「キャラクター」の成立順序に注目している。虚構の人物についてのキャラクター論では成立順序が「キャラ」→「キャラクター」となる(まず線画としてのキャラが描かれ、それが作品の完結とともに独自性を与えられる)が、若者のキャラ論においては成立順序が「キャラクター」→「キャラ」になる(まず生身の身体としての「キャラクター」があり、そこからのずれとして「キャラ」が割りあたられる)のだという。 土井隆義は、例えば着せ替え人形のリカちゃんが(本来与えられていた家庭環境などの設定=物語を忘却して)ミッキーマウスなどの別のキャラクターを演じるようになった(キャラクターのキャラ化の進行)ことは、現代人が「大きな物語」 を失い周囲の状況に即して臨機応変に外キャラを演じるようになったことを暗示しているように思えると述べている。
※この「キャラとキャラクター」の解説は、「キャラ (コミュニケーション)」の解説の一部です。
「キャラとキャラクター」を含む「キャラ (コミュニケーション)」の記事については、「キャラ (コミュニケーション)」の概要を参照ください。
キャラとキャラクター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 04:40 UTC 版)
「キャラクター」の記事における「キャラとキャラクター」の解説
漫画評論家の伊藤剛は、その著書『テヅカ・イズ・デッド』にて、図像として描かれて「人格のようなもの」を想起させ、作品を離れて自律化しうるキャラと、それをベースとしてテクストの背後に人生や生活を感じさせるものとしてのキャラクターを使い分けている。そして、例えば「『NANA』はキャラクターは立っているがキャラは弱い」というように、キャラクターとしての強度とキャラとしての強度は一致しないとしている(『NANA』の例でいえば、登場人物の一人であるハチがあたかも現実に存在するかのように思えるという意味でキャラクターは立っているが、二次創作などを通じて原作と異なる環境でも存在感を発揮するという意味でのキャラの強度は低いと考えられる)。 この「キャラクター」と「キャラ」の使い分けは、しばしば批評家の東浩紀が提示したデータベース消費と絡めて言及される。円堂都司昭によれば、データベース消費論でいうところの物語の水準が「キャラクター」でデータベースの水準が「キャラ」となる。さらに、現実世界における擬似的な仮想人格としてのキャラについて論じるときも、伊藤の「キャラ/キャラクター」の使い分けが援用されることがある。
※この「キャラとキャラクター」の解説は、「キャラクター」の解説の一部です。
「キャラとキャラクター」を含む「キャラクター」の記事については、「キャラクター」の概要を参照ください。
- キャラとキャラクターのページへのリンク