ウェッレス弾劾裁判
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「クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の記事における「ウェッレス弾劾裁判」の解説
ホルタルスはその生涯を通じて元老院の寡頭制を支持するオプティマテス(門閥派)に属し、法廷で多くの門閥派の代表者を擁護し、改革を唱えるクィントゥス・オピミウス等のポプラレス(民衆派)に反対した。したがって、紀元前70年にキケロが元シキリア属州総督ガイウス・ウェッレスを告発したとき、ホルタルスはウェッレスの弁護を行った。ホルタルスとウェッレスは古くからの友人であった。キケロによると、ホルタルスの荘園はシキリア島から送られてきた芸術作品で飾られていた。ホルタルスは友情からだけでなく、多額の報酬を得て弁護を引き受けたが、ウェッレスが総督を務めていた間に莫大な富の所有者となったからでもある。 弁護側は裁判を始めるにあたり、けむに巻くような方法を使った。クィントゥス・カエキリウス・ニゲルという人物にもウェッレスを告発させたのだ。ニゲルは以前にウェッレスの下でクァエストル(財務官)を努めており、裁判を台無しにする可能性があった。このため、キケロとニゲルのどちらが告発者となるかを、占い(divinatio)で決めることとなった。キケロの主張は、ニゲルの真意がどうであり、彼自身がホルタルスのような傑出した弁護人に立ち向かう準備ができていないということであった。 カエキリウス君、私には彼(ホルタルス)がどのように君を翻弄するか、既に見えている。彼は何回君に二つの回答の一つを選択する自由を与えるだろうか。物事がなされたのかなされなかったのか、事実なのか嘘なのか。そのどちらを選ぶにしても、全ては君に不利になるのだ。闇の中でどれだけの苦悩に耐えなければならないのか、想像に難くはない。。。彼が君の告発を幾つもに分解し、指の上でそれぞれを並べ替えて追求しはじめたら、君は何ができるだろう?彼がそれぞれの小さな問題に関して、それぞれに粉砕し、反論し始めたらどうなるだろう?君は無実の人を危険な目に遭わせてしまったのではないかと恐れ始めるだろう。 キケロ『クィントゥス・カエキリウスの占いに関して』、14.45. 同じ演説の中で、キケロは公然とホルタルスに挑戦し、こう言った:「私は彼の才能を称賛するが、彼を恐れてはいない」。さらにこうも言っている:「彼に希望を持たせないようにしよう。裁判が私に委ねられるならば、彼は自分の弁護計画全体を変更しなければならず、彼が好む方法ではなく、もっと正直で立派な方法で実施されることになる」。結局、判事はキケロを原告として認めた(紀元前70年1月)。するとホルタルスは裁判の引き伸ばしにかかった。ホルタルスは次期執政官選挙に立候補するつもりであり、当選してかつ来年まで裁判を延期できれば、有利になると考えたのだ。裁判長はウェッレスの友人であるマルクス・カエキリウス・メテッルスが務めることになるだろう。このため、ホルタルスはマケドニア属州総督(名前は不明)に対する裁判を組織した。その結果、ウェッレスの裁判の開始は8月に延期された。ホルタルスは、第一回目の審理の後、さらなる調査が行われることを期待していた。ローマでは、秋の間に様々な催し物が行われれるため、これは事実上の成功(翌年への延期)を保証するものであった。しかし、弁護側は最初の段階で裁判に負けてしまった。キケロは短い演説と共に、8日間にわたって証人を法廷に喚問し、その証言によって、ウェッレスが数々の権力乱用の罪を犯していたことが明らかになった。ホルタルスは、すべての証人の尋問の間、沈黙していた。そして一度だけケントゥリパ(シキリアの都市)の副官であるアルテモに対して「証人ではなく告発者だ」と呼んだ。このことから、キケロは、弁護側は何も反論することがないと結論づけた。後にキケロは「強力な猛攻」で「あらゆる方向からから敵を打ちのめした」と回想している。ホルタルスは敢えて発言せず、評決や第2回の審理を待つことなく、ウェッレスに亡命するように助言した。彼はマッシリアに向かって出発した。 ウェッレス弾劾裁判は、ホルタルスの無条件降伏であった。その結果、ホルタルスはローマ最高の弁論家としての地位を失い、以降はキケロが第一人者となった。
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ウェッレス弾劾裁判
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「クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクス」の記事における「ウェッレス弾劾裁判」の解説
紀元前70年後半に行われたキケロの『ウェッレス弾劾演説』では、キケロはシキリア属州住民の原告側弁護士となり、属州総督ガイウス・ウェッレスを強奪審理裁判所に起訴した。ウェッレスは紀元前73年から紀元前71年にかけて総督を務めたが、倫理的に腐敗し、賄賂を受け取っていただけでなく、4000万セステルティウス相当の金品を盗んだとシキリア住民に告発されていた。彼らはまた、ウェッレスが正式な裁判無しにローマ市民を死刑にしたことが、ローマの法に触れると訴えていた。ケルティクスとクィントゥス・ホルテンシウス・ホラティウスは翌年の執政官選挙に当選していたが、両者ともにウェッレスと親しく、彼を支援することとした。ホラティウスは被告側弁護人となり、クレティクスの兄弟のマルクスが強奪審理裁判所の翌年の裁判長であった。被告側は、裁判の開始を翌年まで延期し、クレティクス、ホラティウス、マルクスの影響力を判決に利用しようとした。このため、キケロはクレティクスを「義務と権威を投げ出した」として、例えウェッレスの悪政と直接的な関係は無いにせよ、腐敗していると非難した。キケロは、クレティクスが執政官選挙に勝ったのは自分自身の能力のためでなく、ウェッレスの賄賂によるものであると二度にわたって示唆し、さらにクレティクスを反ウェッレスに転向させようとして、ウェッレス自身がそう言っていると述べている。 キケロは紀元前63年に執政官となりカティリナの謀反に対する裁判でカティリナの支持者達を死刑としたが、これが法律違反であるとして紀元前58年にローマを追放されていた。その後追放は解かれたが、帰還後の元老院での演説で、クレティクスの親戚であるクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレル(紀元前60年の執政官)の援助を得たことを述べている。キケロはケレルが真に貴人であり、自然に優れた気質を持っているとしている。以前は政敵であったにも関わらず、キケロはメテッルス家を模範的な市民であると讃えている。
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