アッシリアの滅亡とは? わかりやすく解説

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アッシリアの滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 21:52 UTC 版)

エジプト第26王朝」の記事における「アッシリアの滅亡」の解説

一方でアッシリアではアッシュールバニパル王治世末期頃から急速に弱体化した東方ではイラン高原中心としたメディア勢力増しつつあり、紀元前625年頃までにはバビロニア総督ナボポラッサルアッシリア反旗を翻して独自の王国築いた新バビロニア)。メディア新バビロニア同盟結んでアッシリア攻撃し、これを破って首都ニネヴェ始めとした中心地帯を制圧する勢い見せたプサメティコス1世はこの事態対し、かつての支配者アッシリア助ける道を選び紀元前616年にはシリア出兵して新バビロニア軍と干戈を交えた。しかし大勢変わらず間もなくメディア新バビロニア連合軍によってアッシリア首都ニネヴェ陥落アッシリア貴族であったアッシュール・ウバリト2世ハランへと逃れた紀元前610年プサメティコス1世没すると、息子ネコ2世王位継承し、なおもアッシリアへの支援続けシリアへの再度出兵踏み切った。彼は途中でユダヨシヤ殺しパレスチナ通過してハランアッシュール・ウバリト2世合流したが、新バビロニア軍との戦い敗北して退却余儀なくされ、ここにアッシリア滅亡した紀元前609年)。 アッシリア救出失敗したネコ2世シリア地方覇権確立するべく策動したが、アッシリア破った新バビロニアナボポラッサル息子ネブカドネザル2世命じてシリアエジプト軍攻撃したエジプト新バビロニアシリアにおける戦い数年続いたが、ユダ王国破りメギドの戦い (紀元前609年))、遂に紀元前605年カルケミシュの戦いエジプト軍決定的な敗北を蒙り、ネコ2世シリア政策は完全に頓挫したネブカドネザル2世余勢を駆ってエジプトにまで進軍してきた時にはこれを撃退することに成功したものの、以後シリア地方での軍事活動を行うことはできなかった。

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アッシリアの滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 14:23 UTC 版)

新アッシリア帝国」の記事における「アッシリアの滅亡」の解説

アッシュルバニパル死後多く王位主張者による苦し内戦発生し帝国急速に崩壊し始めたアッシュル・エティル・イラニアッシュルバニパルの跡を継いだが、彼の治世短く紀元前627年彼の兄弟であるシン・シャル・イシュクンが王になった宦官シン・シュム・リシルによる反乱対処した後、シン・シャル・イシュクンはさらに大きな脅威直面したバビロニア属州が、アッシリア国内激変につけ込んで反乱起こしたのである反乱は、それまではよく知られていなかったナボポラッサルによって主導され、紀元前625年発生したその後は、バビロニア中心部において長い戦い続いた最初にナボポラッサルバビロニア地方におけるアッシリア帝国中心地ニップル占領試みたが、これはシン・シャル・イシュクンによって阻まれた。しかし、バビロンにおける一般民衆による反乱の後、ナボポラッサルバビロン確保し、同じ年にバビロンになったその後シン・シャル・イシュクンは、さらに多く領土失った紀元前624年にはウルク取り戻すことに成功したが、それもすぐに奪い返された。紀元前623年シン・シャル・イシュクン大軍率いてバビロニア向かい反乱の完全鎮圧目指したが、この時、さらにもう一つ戦いが、こともあろうかアッシリア中心部発生した。この反乱指揮した将軍の名前は分かっていないが、バビロニア戦線向けて送られ援軍方向転換し妨害を受けることなく首都ニネヴェにまで到着したのであるこの人物はニネヴェ入ってアッシリア王名乗った。この問題放置などできるはずもなく、シン・シャル・イシュクン本国戻ってこれを鎮圧したが、これにより、バビロニア問題解決するための貴重な時間失われ一方でナボポラッサル自分地位強固なものとすることができた。 紀元前620年ナボポラッサルはついにニップル占領しバビロニアの主となった。これらの出来事展開していく中で、メディアもまたアッシリア支配から独立し国力増強した紀元前615年10月または11月、キュアクサレス王率いメディア軍がアッシリア侵入しアッシリア軍に対す最終的な大規模遠征足がかりとして、都市アラプハ周辺地域制圧した。同じ年、メディア軍はシン・シャル・イシュクンタルビス戦いで破り、そして紀元前614年アッシュル占領都市略奪して多く住民殺したナボポラッサルは、略奪が既に始まった後にアッシュル到着し、キュアクサレスと面会した。彼らは反アッシリア同盟を結び、ナボポラッサルの子ネブカドネザルメディア王女婚姻させることとした。今やアッシリア圧倒的な劣勢に立たされたのである。それから4年間の苦し戦い経て紀元前612年連合軍はついにアッシリア首都ニネヴェ包囲し、3か月包囲戦の後城壁突破して市街戦へとなだれこんだ都市陥落させたのは、メディア軍の働きによるところが大きい。シン・シャル・イシュクン最期は明らかではないが、一般的にはニネヴェ防衛戦において死んだとされている。ニネヴェ陥落は、アッシリア帝国終焉始まりだった。 アッシュル・ウバリトという名の将軍アッシリア王名乗ったアッシリアエジプト王朝ファラオネコ2世から時機逸した軍事支援を受け、紀元前609年までハッラーン持ちこたえた紀元前614年アッシュル破壊されてからは、伝統的な戴冠式を行うことは不可能だったので、アッシュル・ウバリト2世新たな首都ハッラーン王位就いたバビロニア人が彼をアッシリア王見なす一方でわずかに残った民はそのようには見なさず、彼の称号王太子のままだった(mar šarri、「王の息子」の意)。しかしながら、アッシュル・ウバリトが公式に王でなかったことは、その正統性疑義抱かれたわけではなく、単に正式な儀式済ませていないと見なされていたに過ぎないエジプト支援その後続きアッシリア軍は、増大するバビロニアメディア国力抑えようという絶望的な試みに挑戦した紀元前609年エジプト軍メギドの戦いで、ヨシヤ率いユダ軍を破り、ようやくアッシリア軍の残党の下にたどり着いた紀元前609年ハッラーンにおける最後の戦いで、アッシリア・エジプト連合軍はバビロニア・メディア連合軍敗れ独立国家としてアッシリア消えたアッシュル・ウバリト2世ハッラーン殺されたのか、生き延びたのかも分からないが、いずれにせよ、彼は歴史から消えた紀元前605年、かつてのアッシリア軍の残党参加して別のエジプト軍バビロニア軍と戦ったが(カルケミシュの戦い)、これも敗北終わった。 さらに年月流れて紀元前6世紀半ばバビロニアアッシリアペルシア帝国属州になった紀元前520年アッシリア独立目指す最後試みとして、アケメネス朝対す大規模な反乱行ったが、ダレイオス大王鎮圧され終わった新アッシリア帝国滅びたが、アッシリア文化後継の諸帝国例えメディアペルシア、インド・イラン派の人々など、かつてアッシリア支配されていた人々影響残した

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アッシリアの滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 14:50 UTC 版)

プサムテク1世」の記事における「アッシリアの滅亡」の解説

一方でアッシリアではアッシュールバニパル王治世末期頃から急速に弱体化した東方ではイラン高原中心としたメディア勢力増しつつあり、紀元前625年頃までにはバビロニア総督ナボポラッサルアッシリア反旗を翻して独自の王国築いた新バビロニア)。メディア新バビロニア同盟結んでアッシリア攻撃し、これを破って首都ニネヴェ始めとした中心地帯を制圧する勢い見せたプサムテク1世はこの事態対し、かつての支配者アッシリア助ける道を選び紀元前616年にはシリア出兵して新バビロニア軍と戦戈を交えた。しかし大勢変わらず間もなくメディア新バビロニア連合軍によってアッシリア首都ニネヴェ陥落アッシリア貴族であったアッシュール・ウバリト2世ハランへと逃れたその後プサムテク1世紀元前610年没し息子ネコ2世王位継承したエジプトその後アッシリアへの支援続けシリアへの再度出兵踏み切った。しかし新バビロニア軍との戦い敗れ紀元前609年アッシリア滅亡することになる。

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