シベリア出兵
読み方:しべりあしゅっぺい
「シベリア出兵」とは、イギリス・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中華民国そして日本からなる連合国が極東シベリア地域に出兵した対ソ軍事干渉のことである。1918年8月から1922年10月まで続いた。
シベリア出兵に参加した国々は第一次世界大戦の連合軍である。当時はドイツはじめとする連合国と交戦中であった。しかしマルクスによる著書に基づいた共産主義を掲げるソ連が二度の革命を経て誕生すると連合国はその脅威性を認識し、もし民衆に伝播する事態ともなれば革命などによって既得権益が打倒されかねないものだと判断した。そのために、第一次世界大戦で国内が疲弊していたにも関わらず、強行軍を編成して革命を頓挫させ、民衆を牽制しようとしたというものが、この出兵に至った主な理由であると考えられている。
また、帝政ロシア時代に貸し付けた資本の回収や、進出していた外資企業の保全も目的の一つである。しかし、連合国軍は帝政ロシアが倒れた後、赤軍が管理する銀行から大量の金塊を強奪したチェコ軍団の救出を名目に出兵した。最終的に彼らは追い詰められ、バイカル湖にて全滅することになるのだが、連合国軍は国民を納得させるとともに、ともすれば大量の利益を得ることができるという大義名分を得たのである。
最終的に政府は、シベリア地域に傀儡国家を建国するという目標の下で、アメリカとの事前合意である歩兵戦力8000人を大きく超える37000人を動員した。そして最初に日本軍はウラジオストクに上陸・強襲し拠点として確保した。その後に連合軍も到着し、順調に各拠点を陥落させていった。しかしドイツ革命により第一次世界大戦が停戦状態に陥ると、主な目的を大戦下における民衆の牽制としていた各国は撤退を始めた。日本軍内では同調して撤退すべきとの論調も出たが、見かけ上の出兵目的を居留民の保護・朝鮮及び満州への勢力拡大防止に変更し、出兵は継続された。
日本軍の最大進出線は、北樺太や満州、沿海州やバイカル湖西部という、極東地域において広大なものとなった。しかし連合軍からは、領土拡大の野心を抱いていると認識され、以後の国際関係に悪影響を及ぼした。また地域の民衆に対する扱いは酷いもので、ある集落では共産派が潜伏しているとの噂に基づいて一斉に砲撃し、隠れた住民の家々に放火し、建物から逃亡しようとしたところを射殺、拘束し、拘束した住民を一列に並べて順に射殺することもされていた。そのような蛮行に怒った住民たちはパルチザンを結成し、現地の赤軍などと協力してゲリラ的に日本軍に攻撃を加えるようになった。これらが発生するようになると戦況は一変し、長期間の出兵による士気低下によってパフォーマンスが落ちていた日本軍は敗走し始めた。また土地勘がある住民に包囲され、全滅する部隊も出てきたことから、参謀本部は撤退の決断をしなければならなくなった。
結果、1922年10月に日本軍は大陸から撤退(従来の支配地域を除く)し、3500名の死者・負傷者を出し成果もあまり出せなかった。また戦費は当時の日本円で10億円に及び、前述した大陸進出の野心を疑われたことによるアメリカとの対立も招いた。一方でソ連側の被害も大きく、死者・負傷者が8万人、損失は6億ルーブル程度とされている。
また、日本ではシベリア出兵の噂を聞きつけた大商人たちによって米が買い占められ、売り惜しみやそれによる相場の暴騰に耐え切れなくなった富山県の主婦を発端に各地で暴動が発生した米騒動も起きた。尚、実際にはシベリア出兵による米の不足はなく、商人の買い占めによって市場に米が出回らなくなっただけであると評価されている。
「シベリア出兵」とは、イギリス・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中華民国そして日本からなる連合国が極東シベリア地域に出兵した対ソ軍事干渉のことである。1918年8月から1922年10月まで続いた。
シベリア出兵に参加した国々は第一次世界大戦の連合軍である。当時はドイツはじめとする連合国と交戦中であった。しかしマルクスによる著書に基づいた共産主義を掲げるソ連が二度の革命を経て誕生すると連合国はその脅威性を認識し、もし民衆に伝播する事態ともなれば革命などによって既得権益が打倒されかねないものだと判断した。そのために、第一次世界大戦で国内が疲弊していたにも関わらず、強行軍を編成して革命を頓挫させ、民衆を牽制しようとしたというものが、この出兵に至った主な理由であると考えられている。
また、帝政ロシア時代に貸し付けた資本の回収や、進出していた外資企業の保全も目的の一つである。しかし、連合国軍は帝政ロシアが倒れた後、赤軍が管理する銀行から大量の金塊を強奪したチェコ軍団の救出を名目に出兵した。最終的に彼らは追い詰められ、バイカル湖にて全滅することになるのだが、連合国軍は国民を納得させるとともに、ともすれば大量の利益を得ることができるという大義名分を得たのである。
日本におけるシベリア出兵
干渉戦争に乗り出した連合国だが、やはりヨーロッパ各国は疲弊のため、十分な歩兵戦力を捻出するのは難しかった。そのため本格的に陸軍戦力を展開していないアメリカや日本へ軍の中核を担うよう要請がなされた。政府はこれを了承し、具体的な規模の議論に移った。その後検討が進行したが、当時内閣では2つの意見が対立していた。一つは積極的戦争論で、イギリスを代表する各国の要求兵力を無視し、主体性を持って出兵すべきだという主張である。そしてもう一方は、連合各国と協調し、要求兵力の通りで出兵すべきだという主張である。最終的に政府は、シベリア地域に傀儡国家を建国するという目標の下で、アメリカとの事前合意である歩兵戦力8000人を大きく超える37000人を動員した。そして最初に日本軍はウラジオストクに上陸・強襲し拠点として確保した。その後に連合軍も到着し、順調に各拠点を陥落させていった。しかしドイツ革命により第一次世界大戦が停戦状態に陥ると、主な目的を大戦下における民衆の牽制としていた各国は撤退を始めた。日本軍内では同調して撤退すべきとの論調も出たが、見かけ上の出兵目的を居留民の保護・朝鮮及び満州への勢力拡大防止に変更し、出兵は継続された。
日本軍の最大進出線は、北樺太や満州、沿海州やバイカル湖西部という、極東地域において広大なものとなった。しかし連合軍からは、領土拡大の野心を抱いていると認識され、以後の国際関係に悪影響を及ぼした。また地域の民衆に対する扱いは酷いもので、ある集落では共産派が潜伏しているとの噂に基づいて一斉に砲撃し、隠れた住民の家々に放火し、建物から逃亡しようとしたところを射殺、拘束し、拘束した住民を一列に並べて順に射殺することもされていた。そのような蛮行に怒った住民たちはパルチザンを結成し、現地の赤軍などと協力してゲリラ的に日本軍に攻撃を加えるようになった。これらが発生するようになると戦況は一変し、長期間の出兵による士気低下によってパフォーマンスが落ちていた日本軍は敗走し始めた。また土地勘がある住民に包囲され、全滅する部隊も出てきたことから、参謀本部は撤退の決断をしなければならなくなった。
結果、1922年10月に日本軍は大陸から撤退(従来の支配地域を除く)し、3500名の死者・負傷者を出し成果もあまり出せなかった。また戦費は当時の日本円で10億円に及び、前述した大陸進出の野心を疑われたことによるアメリカとの対立も招いた。一方でソ連側の被害も大きく、死者・負傷者が8万人、損失は6億ルーブル程度とされている。
また、日本ではシベリア出兵の噂を聞きつけた大商人たちによって米が買い占められ、売り惜しみやそれによる相場の暴騰に耐え切れなくなった富山県の主婦を発端に各地で暴動が発生した米騒動も起きた。尚、実際にはシベリア出兵による米の不足はなく、商人の買い占めによって市場に米が出回らなくなっただけであると評価されている。
シベリア‐しゅっぺい【シベリア出兵】
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