「大会議」と英代表団のハーグ派遣
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「第一次英蘭戦争」の記事における「「大会議」と英代表団のハーグ派遣」の解説
1650年11月6日、共和国連邦の総督ウィレム2世が24歳の若さで突然死去した。死因は天然痘であった。彼は1647年に総督に選ばれて以来、オラニエ家出身のたいへん人気のある貴公子であった。しかし、総督在任中のウィレムは、自身の政策に対するオランダ各州の共和派(英語版)の不満が高まっている事実に直面していた。共和派の人びとは、そのほとんどがオランダの現状を「オランダ総督による統治」というよりは「オラニエ家の君主による支配」とみなしていた。共和派の勢力は特に東方貿易で大規模な商業を展開しているホラント州において強力であった。ウィレム2世に抵抗するため、共和派はオリバー・クロムウェルからの支援を求めた。ウィレム2世の死去8日後に長男ウィレム(3世)が生まれたものの、父子2代にわたる王朝的野心は挫折を余儀なくされた。そして、ウィレムが死去した今となっては、共和派はいっそう政治的に強力な立場に立ち、もはや総督に抗するためのクロムウェルからの援助をさほど必要としなくなっていた。 ホラント州を中心とする反オラニエ派は態勢を立て直すために、1651年1月連邦議会とは別に各州の全権代表をハーグに招集して、特別の「大会議」を開いた。8月までつづくこの会議でホラント州は、今後は州総督をおかないこと(ただし北部の2州は除く)、陸軍最高司令官も任命しないこと、また陸軍については7州が権限と責任を保有することを提案し、最終的にはこれらの事項が全会一致で承認された。これにより、オラニエ家の勢力は大きくそがれることとなり、無総督時代をむかえたオランダは、各州の主権が大幅に強化され、少数の有力な都市貴族(レヘント(オランダ語版))がそれぞれの都市で寡頭支配を展開する「真の自由の体制」と称される政治体制が成立した。 1651年1月28日にスターテン・ヘネラール(オランダ議会)がイングランドの革命政府(コモンウェルス)を公式に承認したとき、彼らはこれが2か国の間に存在するすべての懸案を完全に解決すると考えられた。ところが、1651年3月7日、クロムウェルから派遣された246人の大代表団がハーグに到着したことで政治的な混乱がもたらされた。代表団はオリバー・シンジョン卿を首班とし、スコットランドがイングランドと合邦したように、オランダ共和国自体とコモンウェルス(イングランド)との連合が可能かどうか交渉するために派遣されたのであった。クロムウェルは、イングランドとオランダの合併にかかわる当初の提案を非常に真剣に受けとめていた。「大会議」がオラニエ家排除の方向を打ち出したことによって、単一のプロテスタント共和国が俄然可能性を帯びたものとして映じたのである。会見は礼儀正しくおこなわれ、英国代表団は最初の提案を実現させるため、オランダ人たちにこれを委ねた。オランダ人たちはその首尾一貫した姿勢に驚愕し、そして困惑した。 1か月にわたる協議が暗礁に乗り上げた後、イングランド代表団は、世界を2大勢力範囲に分割するクロムウェルの計画を明らかにした。それは、オランダ人がアフリカとアジアを支配する代わりに、イングランド人が南北アメリカをスペイン人たちから取り上げ、ここを征服することに対しオランダ側が手助けをするというものであった。クロムウェル自身は、同じ新教国であるオランダとの戦争を必ずしも望んではいなかった。彼はイングランドに利益をもたらす帝国が英国自身に付与されることによって、植民地をめぐる競争が緩和されることを望んだのである。しかし、オランダ人たちはそれを不合理で壮大な計画とみなした。その計画は、スペインに占拠されていた南部ネーデルラント(現、ベルギー)との間に、ほとんど利益の望めない、そしてまたオランダにとっては多くの出費をともなう新たな戦争を確実に引き起こすだけであると見なされたのである。7州代表による討議後の6月24日、オランダ人たちは36箇条の反対提案を作成した。彼らは、自分たちが世界征服のための戦争に巻き込まれることなく、イングランド人たちにとってもこれが合意可能であることを望んだ。その提案は本質的に自由貿易協定であった。イングランド代表団を怒らせるものは本来何もなかった。イングランド人たちが自由貿易体制下ではオランダ人たち相手に太刀打ちできず、それが両者の対立の中心をなしているということこそ、厳然たる事実だったのである。イングランド人たちはオランダ側からの反対提案を故意にもとづく侮辱であると解釈した。 その間、他の一連の出来事がオランダに対するイングランド代表団の憎しみを確信させるまでに至った。ハーグには、ウィレム2世の若き未亡人で英王チャールズ1世の娘メアリー・スチュアートの邸宅があった。彼女がこの町にいることによって、スコットランドにおいて彼女の兄チャールズ(のちのチャールズ2世)を相手に戦わなかった英国の亡命貴族の大半がハーグに集まった。こうして、ハーグの町はイギリス王党派の砦となった。そしてまた、ハーグは長い年月にわたってオランダ総督の位にあったオラニエ派(英語版)の拠点でもあった。イングランド使節団のメンバーはすべてクロムウェルの共和政の支持者であり、イギリス王党派および「拡大されたオラニエ派」(実態は、王党派に雇われた都市在住オランダ人暴徒)による襲撃を恐れ、彼らは武装した護衛のもとでようやく下宿先から外出できるような有り様であった。それと同時に、ホラントおよび西フリースラント州(英語版)の共和派からの援助もまた期待できなかった。彼らは、治安を回復しようと試みた結果としてイングランドの各党派がオランダで暴動を起こすことを恐れたのである。 イングランド代表団はひどく失望し、6月の最終週、帰国の途についた。そして、オランダ人たちが信頼するに足らないこと、オランダ連邦はオラニエ党の管理下にあること、したがってイングランド共和国の安全にとって同国が脅威であることをクロムウェルに対し報告した。
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