「大会議」と英代表団のハーグ派遣とは? わかりやすく解説

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「大会議」と英代表団のハーグ派遣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 03:05 UTC 版)

第一次英蘭戦争」の記事における「「大会議」と英代表団のハーグ派遣」の解説

1650年11月6日共和国連邦総督ウィレム2世24歳若さ突然死去した。死因天然痘であった。彼は1647年総督選ばれ以来オラニエ家出身のたいへん人気のある貴公子であった。しかし、総督在任中のウィレムは、自身政策対すオランダ各州共和派英語版)の不満が高まっている事実直面していた。共和派人びとは、そのほとんどがオランダの現状を「オランダ総督による統治」というよりは「オラニエ家君主による支配」とみなしていた。共和派勢力は特に東方貿易大規模な商業展開しているホラント州において強力であったウィレム2世抵抗するため、共和派オリバー・クロムウェルからの支援求めたウィレム2世死去8日後に長男ウィレム3世)が生まれたものの、父子2代にわたる王朝的野心は挫折余儀なくされた。そして、ウィレム死去した今となっては共和派はいっそう政治的に強力な立場に立ち、もはや総督抗するためのクロムウェルからの援助をさほど必要としなくなっていた。 ホラント州中心とする反オラニエ派は態勢立て直すために、1651年1月連邦議会とは別に各州全権代表をハーグ招集して、特別の大会議」を開いた8月までつづくこの会議ホラント州は、今後は州総督おかないこと(ただし北部2州は除く)、陸軍最高司令官任命しないこと、また陸軍については7州が権限と責任保有することを提案し最終的にはこれらの事項全会一致承認された。これにより、オラニエ家勢力大きくそがれることとなり、無総督時代むかえたオランダは、各州主権大幅に強化され少数有力な都市貴族(レヘント(オランダ語版))がそれぞれの都市寡頭支配展開する真の自由の体制」と称される政治体制成立した1651年1月28日スターテン・ヘネラールオランダ議会)がイングランド革命政府コモンウェルス)を公式に承認したとき、彼らはこれが2か国の間に存在するすべての懸案を完全に解決する考えられた。ところが、1651年3月7日クロムウェルから派遣され246人の大代表団がハーグ到着したことで政治的な混乱もたらされた。代表団オリバー・シンジョン卿を首班とし、スコットランドイングランド合邦したようにオランダ共和国自体コモンウェルスイングランド)との連合が可能かどうか交渉するために派遣されたのであったクロムウェルは、イングランドオランダ合併にかかわる当初の提案を非常に真剣に受けとめていた。「大会議」がオラニエ家排除方向打ち出したことによって、単一プロテスタント共和国俄然可能性帯びたものとして映じたのである会見礼儀正しくおこなわれ英国代表団最初の提案実現させるため、オランダ人たちにこれを委ねたオランダ人たちはその首尾一貫した姿勢驚愕し、そして困惑した1か月にわたる協議暗礁に乗り上げた後、イングランド代表団は、世界を2大勢範囲分割するクロムウェル計画明らかにした。それは、オランダ人アフリカアジア支配する代わりにイングランド人南北アメリカスペイン人たちから取り上げ、ここを征服することに対しオランダ側が手助けをするというものであったクロムウェル自身は、同じ新教国であるオランダとの戦争を必ずしも望んではいなかった。彼はイングランド利益もたらす帝国英国自身付与されることによって、植民地をめぐる競争緩和されることを望んだのである。しかし、オランダ人たちはそれを不合理壮大な計画みなした。その計画は、スペイン占拠されていた南部ネーデルラント(現、ベルギー)との間に、ほとんど利益望めない、そしてまたオランダにとっては多く出費をともなう新たな戦争確実に引き起こすだけであると見なされたのである。7州代表による討議後の6月24日オランダ人たちは36箇条反対提案作成した。彼らは、自分たちが世界征服のための戦争巻き込まれることなくイングランド人たちにとってもこれが合意可能であることを望んだ。その提案本質的に自由貿易協定であったイングランド代表団怒らせるものは本来何もなかった。イングランド人たちが自由貿易体制下ではオランダ人たち相手太刀打ちできず、それが両者の対立中心をなしているということこそ、厳然たる事実だったのであるイングランド人たちはオランダ側から反対提案故意にもとづく侮辱であると解釈したその間、他の一連の出来事オランダに対すイングランド代表団憎しみ確信させるまでに至ったハーグには、ウィレム2世若き未亡人英王チャールズ1世の娘メアリー・スチュアート邸宅があった。彼女がこの町にいることによって、スコットランドにおいて彼女の兄チャールズ(のちのチャールズ2世)を相手に戦わなかった英国亡命貴族大半ハーグ集まった。こうして、ハーグの町はイギリス王党派の砦となった。そしてまたハーグ長い年月わたってオランダ総督の位にあったオラニエ派(英語版)の拠点でもあった。イングランド使節団メンバーはすべてクロムウェル共和政支持者であり、イギリス王党派および「拡大されオラニエ派」(実態は、王党派に雇われ都市在住オランダ人暴徒)による襲撃恐れ、彼らは武装した護衛のもとでようやく下宿先から外出できるような有り様であった。それと同時にホラントおよび西フリースラント州英語版)の共和派からの援助もまた期待できなかった。彼らは、治安回復しよう試みた結果としてイングランドの各党派オランダ暴動起こすことを恐れたのであるイングランド代表団はひどく失望し6月最終週帰国の途についた。そして、オランダ人たちが信頼する足らないこと、オランダ連邦オラニエ党の管理下にあること、したがってイングランド共和国安全にとって同国脅威であることをクロムウェル対し報告した

※この「「大会議」と英代表団のハーグ派遣」の解説は、「第一次英蘭戦争」の解説の一部です。
「「大会議」と英代表団のハーグ派遣」を含む「第一次英蘭戦争」の記事については、「第一次英蘭戦争」の概要を参照ください。

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