「大公」の詐称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:54 UTC 版)
「ルドルフ4世 (オーストリア公)」の記事における「「大公」の詐称」の解説
このときまでハプスブルク家はルドルフ1世、アルブレヒト1世、アルブレヒト2世 、フリードリヒ3世の4人のローマ王を輩出したヨーロッパで最高の名家となっていたが、ルドルフ4世はカール4世の娘カタリーナを妃としながらも、金印勅書が定める7人の選帝侯には含まれていなかった。しかし父・賢公の死の翌年1359年、ルドルフ4世は家臣に対し「我はオーストリア公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、クライン公、並びに帝国狩猟長官、シュヴァーベン公、アルザス公、かつまたプファルツ大公である」と宣言した。 後ろの4つは明らかに官名詐称であった。しかも「大公」(Erzherzog)という称号はそれまで存在すらしなかった。司教(Bischof)の上に大司教(Erzbischof)があるように、多くの公(Herzog)を兼ねるハプスブルク家の当主こそ「大公」を名乗るべきである、というのがルドルフ4世の主張だった。加えて、ハプスブルク家は7選帝侯を上回る特権、自領内で爵位を授け、封土を与える権利を有している、とも主張した。さらに、公爵が通常かぶる公爵帽に代えて大公冠を作った。 カール4世がこれに対して証拠を提出するように言い渡すと、ルドルフ4世は5通の特許状と2通の手紙を提出したが、全て偽造だった。しかも、特許状はよくできた偽書だったが、手紙の差出人はそれぞれ古代ローマのユリウス・カエサルおよび皇帝ネロとなっていた。カール4世に調査を依頼されたフランチェスコ・ペトラルカは、鑑定結果を知らせる手紙に「この御仁はとんでもない大うつけです」と書いている。 罰を下そうにもルドルフ4世に服するつもりがないのは明白だったが、ルドルフ4世はドイツ内外の様々な王侯と同盟を結んでおり、武力討伐も容易ではなかった。カール4世は決定的な対決を避けて寛容政策で臨み、ハプスブルク家の与党ヴュルテンベルク伯エーバーハルト2世(英語版)を討つにとどめた。結局、この時のルドルフ4世の詐称はうやむやにされたが、後にハプスブルク家出身の皇帝フリードリヒ3世の時代に、ルドルフ4世の偽造文書は「大特許状」として帝国法に組み込まれ、「大公」はハプスブルク家にだけ許される正式な称号となった。
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