「大命降下」の実態とは? わかりやすく解説

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「大命降下」の実態

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:16 UTC 版)

大命降下」の記事における「「大命降下」の実態」の解説

明治憲法には内閣総理大臣に関する規定はなく、戦前における内閣総理大臣地位職名内閣職権内閣官制に基づくが、法的にはその任命手続に関する規定はなかった。建前の上では「統治権総攬者」たる天皇法的な規定にも臣下意向にも制約されずに自らの意志任命権行使することになっていたが、それでは任命され内閣総理大臣失策があった場合に、天皇任命責任追及されることになり、これを回避する必要があった一方天皇内閣総理大臣任命するという形式維持する必要があり、この矛盾解決するため、試行錯誤の末、次の手続がほぼ確定した辞任死亡により内閣総理大臣職が空席となった場合、まず、政界事情通じており、天皇特別な信任与えている元勲たち(のち元老呼ばれるうになる人々)に適切な後任推薦するよう命じる。これを「ご下問ごかもん)」と称した元老合議してその時々の政治情勢により適切な候補者をひとりに絞りこんで天皇答申する天皇自身一切検討加えず意見も付さずにそのまま候補者本人伝え内閣総理大臣任命予告したうえで組閣必要な閣僚から就任承諾を得ること)を命じる。元老答申を「奏薦そうせん)」と呼び天皇組閣命じ行為を「大命降下」と称した。 この大命降下後継首班奏薦制度のもと、超然内閣はじまり、中間内閣経て政党内閣様々な形態の内閣誕生することになった。しかし元老はその高齢化死去により次第その人数を減らし大正時代のうちには西園寺公望ただ一人となり、その西園寺昭和には高齢化して新たな後継首班奏薦方式必要になった。昭和7年1932年)には天皇内大臣諮問し、内大臣は主に首相前官礼遇者や枢密院議長からなる重臣」と呼ばれた人々協議して候補者絞りこんで奉答する態勢整えられた(重臣会議。ただし元老関与が完全になくなることは西園寺死去までなかった)。昭和天皇篤い信任得た内大臣木戸幸一は、後継首班奏薦だけでなく、たとえば、太平洋戦争大東亜戦争)での敗色濃くなっていた1944年昭和19年)に最早死に体となっていた東条内閣東条英機首相)を天皇了解得た上で内閣総辞職追い込むなど、宮中居ながら政界にも強い影響力ふるったこの方式で成立した最後内閣は、連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAP)による占領下1946年昭和21年)に成立した第1次吉田内閣吉田茂首相)である。このときの次期首相候補者の推薦前首相幣原喜重郎単独行った内大臣の職は敗戦直後1945年昭和20年11月にすでに廃止されていた。 次代片山内閣片山哲首相)からは、日本国憲法の規定従い衆議院参議院両院における内閣総理大臣指名選挙により内閣総理大臣指名されたうえでその指名基づいて天皇首相任命する憲法第6条1項)形の議院内閣制確立された。イギリスはじめとする他の議院内閣制をとる国においては与党第一党党首元首から首相に任命されるという憲法慣行存在するにすぎないことが多く国会首班指名明確に認め日本国憲法法的に比較異例である。

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