「大命降下」の実態
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明治憲法には内閣総理大臣に関する規定はなく、戦前における内閣総理大臣の地位・職名は内閣職権や内閣官制に基づくが、法的にはその任命手続に関する規定はなかった。建前の上では「統治権の総攬者」たる天皇が法的な規定にも臣下の意向にも制約されずに自らの意志で任命権を行使することになっていたが、それでは任命された内閣総理大臣に失策があった場合に、天皇が任命責任を追及されることになり、これを回避する必要があった一方、天皇が内閣総理大臣を任命するという形式も維持する必要があり、この矛盾を解決するため、試行錯誤の末、次の手続がほぼ確定した。 辞任や死亡により内閣総理大臣職が空席となった場合、まず、政界事情に通じており、天皇が特別な信任を与えている元勲たち(のち元老と呼ばれるようになる人々)に適切な後任を推薦するよう命じる。これを「ご下問(ごかもん)」と称した。元老は合議してその時々の政治情勢により適切な候補者をひとりに絞りこんで天皇に答申する。天皇自身は一切の検討を加えず意見も付さずにそのまま候補者本人に伝え、内閣総理大臣任命を予告したうえで組閣(必要な閣僚から就任の承諾を得ること)を命じる。元老の答申を「奏薦(そうせん)」と呼び、天皇が組閣を命じる行為を「大命降下」と称した。 この大命降下と後継首班奏薦の制度のもと、超然内閣にはじまり、中間内閣を経て、政党内閣と様々な形態の内閣が誕生することになった。しかし元老はその高齢化と死去により次第にその人数を減らし、大正時代のうちには西園寺公望ただ一人となり、その西園寺も昭和には高齢化して新たな後継首班奏薦方式が必要になった。昭和7年(1932年)には天皇が内大臣に諮問し、内大臣は主に首相の前官礼遇者や枢密院議長からなる「重臣」と呼ばれた人々と協議して候補者を絞りこんで奉答する態勢が整えられた(重臣会議。ただし元老の関与が完全になくなることは西園寺の死去までなかった)。昭和天皇の篤い信任を得た内大臣木戸幸一は、後継首班奏薦だけでなく、たとえば、太平洋戦争(大東亜戦争)での敗色が濃くなっていた1944年(昭和19年)に最早死に体となっていた東条内閣(東条英機首相)を天皇の了解を得た上で内閣総辞職に追い込むなど、宮中に居ながら政界にも強い影響力をふるった。 この方式で成立した最後の内閣は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下の1946年(昭和21年)に成立した第1次吉田内閣(吉田茂首相)である。このときの次期首相候補者の推薦は前首相の幣原喜重郎が単独で行った。内大臣の職は敗戦直後の1945年(昭和20年)11月にすでに廃止されていた。 次代の片山内閣(片山哲首相)からは、日本国憲法の規定に従い、衆議院と参議院の両院における内閣総理大臣指名選挙により内閣総理大臣が指名されたうえでその指名に基づいて天皇が首相を任命する(憲法第6条1項)形の議院内閣制が確立された。イギリスをはじめとする他の議院内閣制をとる国においては与党第一党の党首が元首から首相に任命されるという憲法的慣行が存在するにすぎないことが多く、国会の首班指名権を明確に認める日本国憲法は法的には比較的異例である。
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