「大参事」任命・辞退
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明治2年4月8日、千坂高雅の謹慎が解かれる。 版籍奉還後の米沢藩人事で、明治2年12月晦日 朝廷より「千坂高雅(嘉遯斉)を大参事に任命する」太政官辞令と共に三条実美より上杉斉憲宛に「千坂が有用な人材なので、懸念なく大参事に登用するよう」に求める旨の書が届く。 これは千坂の大参事就任を願う宮島誠一郎の三条側近への働きかけが影響したようだが、千坂にとっては想定外のことだった。 「色部家の家名断絶への負い目と奥羽越列藩同盟諸藩の家老の多くが戦死や首謀者として処刑されているのに、自分一人だけが朝廷の政務に参与するようになっては、天下に顔向けできない」という心境から、大参事就任を固辞。 しかし、藩から辞退を受け入れられず、明治3年1月1日登城して太政官辞令を拝受。 しかし、病気と称して出仕せず、7月3日に太政官から辞任を許される。 翌年、千坂が三条実美、岩倉具視と面会した時に、岩倉が千坂に大参事辞任の理由を質した際に「君の官軍に対する抵抗は実に見事で君の才略は一躍有名になった。その上、自ら首謀者を名乗り、国論を統一し、さらに庄内を説得して恭順に導いた忠誠は、政府でも先刻承知しておる」と述べている
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