平家物語 平家物語の概要

平家物語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 14:27 UTC 版)

平家物語・祇園精舎

概要

平家物語

保元の乱および平治の乱に勝利した平家と敗れた源氏の対照的な姿、その後の源平の戦いから平家の滅亡、そして没落しはじめた平安貴族と新たに台頭した武士たちの人間模様などを描いた。「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しでも広く知られている。

成り立ち

平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した『治承物語』(じしょうものがたり)と呼ばれていたと推測されているが、確証はない[要出典]

正確な成立時期は分かっていないものの、仁治元年(1240年)に藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている[要出典]。しかし、『治承物語』が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない[要出典]。少なくとも延慶本の本奥書、延慶2年(1309年)以前には成立していたものと考えられている[要出典]

作者

作者については不明であり、古来多くの説がある。現存最古の記述は鎌倉末期の『徒然草』(兼好法師作)で、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする[注 1]

「後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の譽れありけるが(中略)この行長入道、平家の物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて、語らせけり。」

その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。

この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で、中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている[要出典]。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。なお、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、『徒然草』では同人を「信濃入道」とも記している(信濃前司行長=信濃入道=行長入道)。

そのため信濃に縁のある人物として、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある[要出典]。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曾義仲軍師として、この平家物語にも登場する人物であるが、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承のみで、史料的な裏付けはない。

諸本

壇ノ浦の戦い(1185年)

現存している諸本は、次の二系統に分けられる。

  • 盲目の僧として知られる琵琶法師(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝えてきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するもの。
  • 読み物として増補された読み本(増補系、非当道系とも)系統のもの。

語り本系

語り本系は八坂流系(城方本)と一方(都方)流系(覚一本)とに分けられる。

八坂流系諸本は、平家四代の滅亡に終わる、いわゆる「断絶平家」十二巻本である。一方、一方流系諸本は壇ノ浦で海に身を投げながら助けられ、出家した建礼門院が念仏三昧に過ごす後日談や、侍女の悲恋の物語である「灌頂徴」がある。

平曲

語り本は当道座に属する盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。これを「平曲」と呼ぶ。ここでいう「語る」とは、節を付けて歌うことで、内容が叙事的なので「歌う」と言わずに「語る」というのである。これに使われる琵琶を平家琵琶と呼び、構造は楽琵琶と同じで、小型のものが多く用いられる。なお、近世以降に成立した薩摩琵琶筑前琵琶でも平家物語に取材した曲が多数作曲されているが、音楽的には全く別のもので、これらを平曲とは呼ばない。

平曲の流派としては当初は八坂流(伝承者は「城」の字を継承)と一方流(伝承者は「一」の字を継承)の2流が存在した。八坂流は早くに衰え、現在ではわずかに「訪月(つきみ)」の一句が伝えられているのみである。一方流は江戸時代に前田流と波多野流に分かれた。波多野流は当初からふるわず、前田流のみ栄えた。安永5年(1776年)には名人と謳われた荻野検校(荻野知一検校)が前田流譜本を集大成して『平家正節』(へいけまぶし)を完成させ、以後は同書が前田流の定本となった。

明治維新後は江戸幕府の庇護を離れた当道座が解体したため、平曲を伝承する者も激減した。昭和期には宮城県仙台市に館山甲午(1894年生~1989年没)、愛知県名古屋市に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正保・土居崎正富の3検校だけとなり、しかも全段を語れるのは晴眼者であった館山のみとなっていた。平曲は国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されて保護の対象となっており、それぞれの弟子が師の芸を伝承している。

2018年(平成30年)時点では三品検校の弟子である今井勉が生存しているだけで、今井に弟子はいない状況である。平曲にまつわる文化を研究・伝承するため、武蔵野音楽大学の薦田治子らにより「平家語り研究会」が2015年に発足。かつては約200曲あったとされるうち現在まで伝わる8曲の譜や録音の研究、地歌筝曲の演奏家による平曲の公演などを行っている[2]

平曲の発生として、東大寺大仏開眼供養の盲目僧まで遡ることが『日本芸能史』等で説かれているが、平曲の音階・譜割から、天台宗大原流の声明(しょうみょう)の影響下に発生したものと考える説が妥当と判断される。また、平曲は娯楽目的ではなく、鎮魂の目的で語られたということが本願寺の日記などで考証されている。 また後世の音楽、芸能に取り入れられていることも多く、ことに修羅物)には平家物語に取材した演目が多い。

読み本系

読み本系には、延慶本、長門本、源平盛衰記などの諸本がある。従来は、琵琶法師によって広められた語り本系を読み物として見せるために加筆されていったと解釈されてきたが、近年は読み本系(ことに延慶本)の方が語り本系よりも古態を存するという見解の方が有力となってきており、延慶本は歴史研究においても活用されている。

広本系と略本系の関係についても、先後関係は諸説あって不明のままである。読み本系の中では略本系が語り本と最も近い関係にあることは、『源平闘諍録』の本文中に平曲の曲節に相当する「中音」「初重」が記されていることからも確実視されている[要出典]

天草版

大英博物館には、1592(文禄1)年にポルトガル式ローマ字で書かれた天草版「平家物語」が存在する。これは「日本の言葉と歴史を習い知らんと欲する人のために」書かれたとその扉絵に記されている[要出典]


注釈

  1. ^ 第二百二十六段[1]
  2. ^ 八坂系・仮名百二十句本、ひらがなを読み易く漢字化している。

出典

  1. ^ 佐竹昭広・久保田淳 編『方丈記 徒然草(新 日本古典文学大系39)』岩波書店、1989年、295頁。 
  2. ^ 【文化往来】平家物語の弾き語りを研究会が公演『日本経済新聞』朝刊2018年8月20日(文化面)2018年9月17日閲覧。
  3. ^ 東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之氏旧蔵本(覚一本系)。
  4. ^ 2021年版は“新たな旅立ち”、野村萬斎が新演出で届ける「子午線の祀り」詳細解禁(コメントあり)”. ステージナタリー (2020年12月25日). 2020年12月27日閲覧。


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