人物と業績
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祖父はロンドンのワイン商人で、父がフランス人の母と結婚して帰化し、その間にパリで出生した。家庭は裕福で、1906年からアフリカ、アジアへ足掛け3年の大旅行を楽しんでいる。 1905年2月12日、高名な気球飛行家だった従兄のジャック・フォール (Jacques Faure) の助手として、熱気球によるドーバー海峡の横断に成功した。 同年、モナコで開催されたモーターボートレースでアントワネット航空発動機会社(Société des avions et moteurs Antoinette)製のエンジンを使用したことから、同社のレオン・ルババッスール (Léon Levavasseur) 、ジュール・ガスタンビド(Jules Gastambide) と親交を深め、ウジェーヌ・ウェルフェランジェ (Eugène Welferinger)と共に、同社の専属操縦士を務めるようになった。 翌1906年、ロンドンの新興紙デイリー・メールが宣伝目的で飛行機によるドーバー海峡横断に賞金1,000ポンドを掛けた。この先着競争にルイ・ブレリオ (Louis Blériot)やシャルル・ド・ランベール伯爵(Charles de Lambert)らと呼応し、支援者を募って準備を進めた。 1909年7月19日に単葉機アントワネット IVを駆って海峡横断に初挑戦したが、カレー市郊外のサンガット村を出発して11km進んだ洋上でエンジンが故障し、不時着水して護衛艦に救助された。その後暫く悪天候に阻まれたが、翌週末の7月25日にブレリオが挑戦飛行を予定している事を知り、当日早朝に別の所有機アントワネット VIIで出し抜くことを急遽計画したものの、ルババッスール共々寝坊したため、むざむざブレリオに栄誉と賞金を成さしめた。 結局その2日後、同じアントワネット VIIで横断に再挑戦し、ドーバー目前でまたもや不時着水する不運に見舞われた。後にエッフェル塔を初めて飛び越すランベール伯も、この直前にウィルバー・ライト(Wilbur Wright)からライト・フライヤーを購入したばかりで、両者に遅れを取っていた。 横断失敗以降もラタムは、アントワネット機で数々の高度記録を達成するなど活躍する傍ら、公開展示飛行で西欧、北米各地を巡業し人気者になったが、同社は1911年に倒産した。 1912年にチャドで狩猟中、水牛(一説にはサイ)に角で突かれて客死した。横断飛行の出発点サンガットには、海峡を臨むラタムの銅像が建てられている。
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人物と業績
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エコール・サントラル・パリ工学科卒。 1900年頃から航空機の実現に没頭し、鳥を摸した「はばたき機」を自作したが、飛行するには至らなかった。ライト兄弟が初飛行に成功した1903年、自動車用前照灯の製造で得た利益を基に、ガブリエル・ヴォアザンと共同でブレリオ・ヴォアザンを設立し、アントワネット製エンジン搭載の複葉機などを製作した。 1906年、ロンドンの新興紙デイリー・メールが宣伝目的でドーバー海峡横断飛行に賞金1,000ポンドを掛けたことから、達成競争に参戦するためヴォアザンと袂を頒ち、自ら再び設計・製作を手掛け始めた。 多様な形式の機体(箱型複葉機・推進式単葉機・タンデム翼機など)で試行錯誤し、中でもブレリオ Vは世界初の実用単葉機であったが、翌1907年に事故で失われた。 1909年7月25日早朝、レイモン・ソルニエ(Raymond Saulnier)設計のブレリオ XIを駆ってカレー市郊外からドーバー城まで所要時間36分55秒で初横断に成功。ユベール・ラタム、シャルル・ド・ランベールとの先着競争を征し、巨額の賞金と国際的栄誉を手にした。 その偉業を記念して、ブレリオはレジオンドヌール勲章を与えられ、出発地はブレリオ海岸(Blériot-Plage)と命名された。 ブレリオ XIにはレプリカの注文が殺到し、工房は繁忙を極めた。1914年には、創業者の摘発で混乱状態に陥っていたSPADの経営権を取得、第一次世界大戦では軍用機の最大手量産メーカーに成長させた。 1921年には自身の名を冠したブレリオ・アエロノティック(英語版)(フランス語: Bleriot-Aeronautique)を設立してSPADを子会社化し、民間機事業にも進出して成功した。
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人物と業績
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広瀬はロボット工学は目的達成学、シンセシスの学問であるとし、生物規範のロボットを開発しつつも常に実用志向で研究を行ってきた。また、ユニークな研究や学会の考えを持ったり、ヒューマノイドロボットについては懐疑的なスタンスを取ったりしている。アイザック・アシモフのロボット工学三原則にも懐疑的で、本来欲のない機械であるロボットは生物ではなく聖人を目指すべきではないかと発言している。 研究では多くのロボット製作のみならず、蛇型ロボットや四足歩行ロボットを中心に、 蛇の推進原理(Serpenoid curb、sinus-lifting)、索状能動体の原理、空間曲線の近似 干渉駆動、GDA(重力分離駆動:Gravitationally Decoupled Actuation)、転倒安定 といった理論を打ち出すとともに、センサやアクチュエータ、電子回路等のロボット要素の開発も行っている。 実際に製品化・実用化した実績としては 建設現場の資材運搬ロボット TAQT Carrier(高岳製作所) 光学式6軸力センサ(ミネベア株式会社) ロボット用モータードライバー Titech Driver(岡崎産業、ハイボット) 四足歩行ロボット TITAN-VIII(東京精密機械) クローラロボットモジュール(トピー工業) 可搬型地震動シミュレーター 地震ザブトン(白山工業株式会社) 四足歩行法面作業ロボット TITAN XI(大昌建設) 重力補償型作業支援フロートアーム(日産) 高圧送電線メンテナンス作業ロボット Expliner(ハイボット、関西電力、ジェイ・パワーシステムズ) といったロボット、要素があり、実地で試用したり博覧会で実演したロボットとしては 四足歩行ロボット TITAN-IV(筑波科学博覧会、1985年) 水陸両用蛇型ロボット ACM-R5(愛・地球博、2005年) 自立走行型バギー車両Gryphon&車両搭載型地雷探査用アーム Field Arm(地雷探査) ワイヤ牽引型水中探査ロボット Anchor Diver III(東日本大震災海中探査) などが挙げられる。 教育者としては 機械宇宙学科『機械創造』(大道芸ロボット競技) 日本機械学会ロボットグランプリ を立ち上げるとともに、研究室を通して多様な教育を行っている。また、教授になってからも自ら新しい機構を次々と発明していき、ロボット創造学の第一人者として高く評価されており、講演や解説において創造のノウハウを語っている。
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「ロバート・H・ゲルハード」の記事における「人物と業績」の解説
「標準簡易表記」と呼ばれる英語の発音表記法を考案し、日本における英語教育に尽力した。標準簡易表記は『最新コンサイス英和辞典』(三省堂、1951年)などの辞書に採用された。
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時計師アブラアム=ルイ・ブレゲの末裔。即ち家業はブレゲ時計店である。 兄のジャック・ブレゲーとリシャ博士(Charles Robert Richet )と共同製作した「ジャイロプレーン1号機」(Gyroplane No.I )は、40hpのアントワネット・エンジンと4つの複葉回転翼を持つ回転翼機で、1907年9月19日に地上60cmまで浮揚したが、操縦性不十分で4人の助手が機体の四隅で支える必要があったため、正式な飛行とは認められなかった。 1909年から固定翼機の試作に着手し、1911年にブレゲー航空機を設立、第一次世界大戦ではブレゲー 14偵察機等を量産し、業界大手に成長した。戦後製作した高速複座戦闘機ブレゲー 19は輸出にも成功し各国で用いられた。 詳細は「ブレゲー (航空機メーカー)」を参照 1919年には、フランス航空郵便社(Compagnie Des Messageries Avienne 、エール・フランスの母体の一つ)を設立した。 1924年パリオリンピックにセーリングで出場し、8メートル級で銅メダルを獲得している。
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「フランク・ホイットル」の記事における「人物と業績」の解説
1930年代より約10年の間、ターボジェットエンジンの実用化に大きく寄与した。自信家で偏狭な面があり、方々で軋轢を生んだ。
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「ルドルフ・シュタイナー」の記事における「人物と業績」の解説
シュタイナーは20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた。1900年頃からドイツの神智学サークルと関係するようになり、神智学徒たちの集まりで講演を行うようになった。1902年に神智学協会の正会員となり、同年ベルリンで「神智学協会ドイツ支部」が設立されると、その事務総長(書記長)に選ばれた。1912年に同協会を脱退し、友人らによって設立された人智学協会(アントロポゾフィー協会)の指導にあたった。晩年の1923年末には「一般人智学協会」(普遍アントロポゾフィー協会)を創設してその代表に就任し、亡くなるまで活動を続けた。人智学について多くの著作を物し、物質世界を超えた超感覚的世界(精神界)に関する事柄を語った。その思想の詳細は、ヨーロッパ各地で行われた生涯6千回にも及ぶ講演を通じて明らかにされた。そのテーマは教育、芸術(オイリュトミーと呼ばれる舞踊など)、医学、農業、建築、経済など、多方面にわたった。シュタイナーの著作や講演集は現在も継続してドイツ語で出版され、版を重ね、外国語にも翻訳されている。 シュタイナーは、ヨーロッパの秘教伝統のなかでもとりわけ重要な人物とみなされている。ドイツの観念論とロマン派の影響下でみずからの思想を形成し、ドイツ近代哲学の認識論の系譜を引いているほか、ドイツ神秘主義の影響も受けた。また、教育学者の菱刈晃夫によると、シュタイナーはヨーロッパ中世・ルネサンスから続く「魔術」の水脈を受け継いでいる。三島憲一の説明によると、ゲーテの自然科学論の影響下でシュタイナーが展開したのは、当時さまざまに模索されていた総合知のひとつのかたちであり、その背景には新プラトン主義、ドイツ神秘主義、ヨーロッパの古典的な自然科学があった。シュタイナーは宇宙の精神とむすびついた人間の内なる霊性についての認識の基礎づけを図り、また、近代社会の諸問題の克服に向けた調和への道筋を探った。 一貫性のある完璧に整えられた生活スタイルを提唱しており、オーラの色から台所の棚の色までこまごまと生活の指導を行い、追随者たちに精神生活から食事まで影響を与えた。 環境問題が切迫した課題になった現代では、多くのスピリチュアルな組織や指導者が、精神的な課題として環境保護に注目するようになった。シュタイナーは環境問題に関心を持っており、その思想の中心はエコロジーと宗教が占めていたため、現代の時流とうまくマッチした。また、神秘思想としては珍しく、教育、農業、治療といった実用的・世俗的な実践のノウハウを確立させていたため(神智学と大きく異なる点である)、シュタイナーの思想は現代で復活した。シュタイナーの遺したさまざまな構想は、特にドイツ語圏の国々で、小規模とはいえ存在感をもって実践され続けている。現代の人智学協会の活動はさほど活発とも言えないが(主要メンバーは年配者である)、時代に乗って環境運動を成功させ、有機農業・伝統事業といった生態環境的観点に適う企画に低利率で資金を貸し付ける銀行を設立し、人智学運動は教育、治療および医療まで手を広げた。教育の分野においては、ヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)およびヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)が代替教育として広く普及し、日本でも、世界のヴァルドルフ学校の教員養成で学んだ者を中心に実践されている。現代の人智学協会の影響は、活動の規模よりもかなり大きい。その一方、The Skeptics Society(懐疑派協会)の創設者でサイエンスライターのマイケル・シャーマーなどの現代の批評家は、人智学の生物学、医学、農業などを偽科学と批判している。
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やり手のワンマン経営者として知られ、高羅芳光(富士通の当時の社長)により富士通の計算制御部から分離独立されたファナックを、一代で工作機械のトップメーカーとして育て上げた。NC(数値制御)装置の世界シェアは50%、国内シェアは75%であり、世界トップシェアである。また、同社はメーカーとして驚異的な利益率の高さでも知られ、売上高経常利益率は44.83%(2008年3月期)にものぼる。 「研究開発と企業経営は不可分」という考えを持つ。社長になってからも、研究員に目標を与え、月に一回の社長主催の技術会議で報告をさせ、指導していた。名誉会長になってからも、2013年まで経営本部長や研究本部長に着いていた。その後は本社の相談役名誉会長の座からは退いてはいないものの、連結子会社を含めて、ファナックと名がつく国内7社の代表を退いたため、経営の第一線からは身を引いたのではないかと報じられた。 技術者としてはNC工作機械の数値制御、電気油圧パルスモータ、これらを活用した数値制御による連続切削等に実績があり、この分野の著書や記事も多い。日本ロボット学会副会長、精密工学会会長等を歴任。東京大学工学部において精密工学科(旧造兵学科)図書室の蔵書1万冊が処分されかけた際には、ファナック本社の書庫でそれを引き受けている。 稲葉は酒が好きであり、富士通の計算制御技術部長時代には飲み過ぎて橋から転落することもあったという。学位取得時には富士通時代の上司で同郷の遠縁でもある尾見半左右(技術担当常務)から禁酒の助言を受けていたと述懐している。また、稲葉の酒飲みは知られており、東京工業大学 の中田孝から「稲葉“虎”右衛門さん」と評されたと語っている。
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人物と業績
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天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。 男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。晩年の殺傷事件も男色に関するものが起因していたともされる。 『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや〔貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった。〕)とある。 発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布 の開発がある。一説には竹とんぼの発明者ともいわれ、これを史上初のプロペラとする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する。該項目参照)。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。 エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという。 1765年に温度計「日本創製寒熱昇降器」を製作。現存しないが源内の参照したオランダの書物及びその原典のフランスの書物の記述からアルコール温度計だったとみられる。この温度計には、極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列のほか数字列も記されており華氏を採用していた。 土用の丑の日にウナギを食べる風習は、源内が発祥との説がある。この通説は土用の丑の日の由来としても平賀源内の業績としても最も知られたもののひとつだが、両者を結び付ける明確な根拠となる一次資料や著作は存在しない。また明和6年(1769年)にはCMソングとされる歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。 浄瑠璃作者としては福内鬼外の筆名で執筆。時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年(明和元年)に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。 鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。 文章の「起承転結」を説明する際によく使われる「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説がある。
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