神智学協会
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神智学協会(しんちがくきょうかい、英語: Theosophical Society)は、ヘレナ・P・ブラヴァツキー、ヘンリー・スティール・オルコット、ウィリアム・クアン・ジャッジらが1875年にアメリカのニューヨークで結成した神秘思想団体である[† 1]。神智学[† 2]を振興した。神智協会(しんちきょうかい)とも。
注釈
- ^ 宗教団体と言われることもある[1]。神智学協会は「真理に勝る宗教はない」という超宗教的なスローガンを掲げるなど、自らを宗教団体とみなしていないふしがあり[2]、協会にはいかなるドグマ(教条)もないとして[3]、会員に特定の教義を押し付けることはないと主張している[4]。
- ^ ここではブラヴァツキーら神智学協会に始まる思想を指し、それ以前からあるキリスト教神智学とは異なる。秘教史家グドリック=クラークは、ヤーコプ・ベーメらのキリスト教神智学 (Christian theosophy) と区別して、頭大文字の〈神智学〉 (Theosophy) あるいは〈近代神智学〉 (Modern Theosophy) という用語を使用している[5]。とはいえ、アントワーヌ・フェーヴルはキリスト教神智学の影響を受けた20世紀の思想家たちの名を挙げており[6]、近現代にキリスト教神智学の命脈が絶たれていたとは必ずしも言えない。
- ^ 特に、第2代会長アニー・ベサントは1910-20年代に民族主義勢力と連携してインド独立運動に尽力した[8]。
- ^ 出典は2010年に発表された論文であるが、この情報がいつの時点のものかは明記されていない。
- ^ オルコットの興味はのちに神智学から仏教に移った。
- ^ 医学校の教授や編集者をしながら、イアンブリコスの『エジプト人の秘儀について』の翻訳や、『新プラトン主義と錬金術』など多くの哲学論文を物した。ブラヴァツキーの主著『ヴェールを剥がれたイシス』の序文「ヴェールの前で」の多くの部分はかれに負っている[18]。
- ^ 後にA・P・シネットはブラヴァツキーとは距離を置くようになるが、霊媒を使ってマハトマとの通信を継続しようとした[22]。
- ^ インド思想史家の山下博司による表記[23]。
- ^ 後にこれは心霊現象研究協会手続上の瑕疵により、心霊現象研究協会としての行動ではなかったと表明。
- ^ ティングリーが作った華やかな神智学コミュニティにより、カリフォルニアはオカルトの地として知られ、世界中のオカルティストが集まるようになり、ニューエイジにおいて重要な場所となった[31]。ポイントロマのコミュニティは1907年頃が最盛期だったが、第一次世界大戦までに財政状況が悪化し、1923年に寄附に関わるスキャンダルによりティングリーはポイントロマを去り[31]、彼女の没後はパサデナに移転した[29](神智学協会パサディナ)。
- ^ 先のリチャード・ホジソンによる調査の折、アディヤール本部の責任者を務めていた[32]。
- ^ 神智学協会ニッポン・ロッジの日本語訳2種類。タイトル・ページにかかげられている翻訳、入会案内のページの翻訳の順で記す。
- ^ 文化人類学者の杉本良夫は次のように指摘している。「『比較 comparative』が、この訳のように哲学、科学までかかるのか、宗教だけにかかるのかについては大きな問題をはらんでいる。科学史的には、1896年時点で比較哲学、比較科学という概念はありえないようであるが、協会自体も明確ではないようである。」[41]
- ^ 吉永によれば、メタフィジカル宗教とは、アメリカ西海岸の書店で使用されている社会的にも通用している用語で、〈神智学〉を思想的柱とする大衆的オカルティズムを意味する。
出典
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- ^ 杉本 2010, pp. 182, 187.
- ^ ストーム, 高橋・小杉訳 1993, p. 21.
- ^ a b パートリッジ編, 井上監訳 2009, pp. 445-447, Kevin Tingay 「神智学協会」(宮坂清訳).
- ^ Goodrick-Clarke 2008, p. 211.
- ^ フェーヴル, 田中訳 1995, pp. 122–123.
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- ^ 山下 2004, pp. 226–227.
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- ^ 小田光雄「古本夜話148 三浦関造『革命の前』、ブラヴァツキー、竜王文庫」
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- ^ a b 吉永 2010, p. 388.
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- ^ (株)竜王文庫の沿革
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- ^ 大田 2013, p. 183.
- 1 神智学協会とは
- 2 神智学協会の概要
- 3 歴代会長
- 4 参考文献
- 5 関連文献
- 6 関連項目
神智学協会
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「ヘンリー・スティール・オルコット」の記事における「神智学協会」の解説
1874年以降、ヘレナ・P・ブラヴァツキーと他の精神指導者の影響によってオルコットの精神は深まっていき、神智学協会の基礎を創った。 1875年、オルコット、ブラヴァツキー、ウィリアム・クアン・ジャッジ(英語版)などが神智学協会を立ち上げた。オルコットは最初の数年間この神智学協会の財政を援助し、神智学協会の初代の会長となった。この時、ブラヴァツキーは通信書記とされた。1878年、ニューヨークを離れて、インドに本部を置いた。 1879年2月16日、ムンバイに上陸した。オルコットは、彼の精神的指導者である釈尊の母国を体験するに到ったのである。神智学協会の本部をアディヤールに置き、「神智学協会(アディヤール)」とした。彼はインドにおいて、当時植民地主義者が集めて有名になりつつある東洋の聖典を原典から翻訳するように努めていた。これは、アメリカで見られるような西洋的な翻訳を排除し、仏教、ヒンドゥー教とゾロアスター教の文献の持つ本来の意味を発見しようとしたからである。 オルコットの関心の中心は仏教だった。そして、スリランカでの仕事が有名になった。1880年5月16日、彼らは、セイロン(現在のスリランカ)のコロンボに到着した。オルコットとヘレナ・P・ブラヴァツキーはアメリカに居る時から、仏教徒と宣言していたが、5月25日に正式に仏教徒として認められた。この地に滞在中、西欧人の教育のために仏教の教義を編集し、宗教としての仏教をより理解するように努めていた。この時期に、現在でも使われている『仏教教義要綱』(1881年)、(邦訳『仏教問答』ヘンリ−・エス・オルコット著、原成美訳)が執筆された。 神智学協会は、この地にいくつかの仏教学校を設立した。そのうちで最も有名なのが、アーナンダ大学、ダルマラージャ大学、マリヤデーヴァ大学とマヒンダ大学である。彼の死後、ブラヴァツキーが後見を務めたアニー・ベサントがこの協会の管理者となった。 オルコットは仏旗のデザインを企画する委員会の助言者として活躍した。ブラヴァツキーは、しばしば、骨を埋めることになるロンドンに滞在していたが、オルコットは、インドに滞在し続け、そこで協会の活動に専念した。 神智学協会におけるオルコットの役割は、会長としてのものだが、アニー・ベサントの就任は、新しい時代の幕開けでもあった。彼の死後、アニー・ベサントは次の会長に選ばれ、この運動の指導者として認められた。
※この「神智学協会」の解説は、「ヘンリー・スティール・オルコット」の解説の一部です。
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