メディチ‐け【メディチ家】
メディチ家
メディチ家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/04 06:02 UTC 版)
ルクレツィア・トルナブオーニ ロレンツォの母。病弱な現当主である夫に代わり家政を担う。実年齢に比べ若々しい風貌をしている。 短命なメディチ家の血を強い物にするため、及びスティラに対して何か確かめる事があり、3か月という期限を設けるが彼女を花嫁候補として迎えた。 ジュリアーノ・デ・メディチ ロレンツォの弟。性格は人見知り。 マルシリアス・フィチーノ ロレンツォの家庭教師。 ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ メディチ家の現当主。痛風病みのため病弱。空の額縁のある部屋で療養している。部屋を訪れたスティラのロレンツォについての話を楽しそうに聞いていた。 コジモ・デ・メディチ ロレンツォの祖父。故人。メディチ家を繁栄させた。 マリア ピエロの長女。ロレンツォの姉。黒髪。 ビアンカ ピエロの次女。 ナンニーナ ピエロの三女。 カルロ・デ・メディチ ロレンツォの叔父。プラトン・アカデミーの臨時講師となる。褐色の肌をしている。スティラの母・リディアは元許嫁であった。
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メディチ家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 08:19 UTC 版)
コジモ1世(フィレンツェ公 在位:1537年 - 1569年、トスカーナ大公 在位:1569年 - 1574年) フランチェスコ1世(在位:1574年 - 1587年) フェルディナンド1世(在位:1588年 - 1609年) コジモ2世(在位:1609年 - 1621年) フェルディナンド2世(在位:1621年 - 1670年) コジモ3世(在位:1670年 - 1723年) ジャン・ガストーネ(在位:1723年 - 1737年) メディチ家断絶。1738年に発効したウィーン条約により公位はロートリンゲン公フランツ・シュテファンに移る。
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メディチ家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 05:21 UTC 版)
ピッティの死から約100年を経た1550年頃、初代トスカーナ大公であるメディチ家の当主コジモ1世が、体調を崩しがちになった妻エレオノーラ・ディ・トレドのためにピッティ宮殿を買い取った。これにともない中断されていた宮殿の建設が再開された。宮殿の改修は、バルトロメオ・アンマナーティが担当し、宮殿の背後にある庭(現・ボーボリ庭園)の設計は、通称トリボロという芸術家の案に従って造られていったとされる。庭と宮殿の整備は、1590年頃まで約半世紀近く、コジモ一世、フランチェスコ一世、フェルディナンド一世と三代にわたって続けられた。 1580年に現在のウフィッツィ美術館が完成し、その建物が政治の場として機能するようになると、コジモ1世およびその家族は私的な時間をピッティ宮殿で過ごすようになる。結果としてコジモ1世の公私の空間は、これら二つの建物に分離された。 また、多数の芸術家を支援したことで知られるメディチ家は、美術品の収集にも熱心だった。ルネサンスを代表する名画や宝飾品が、時の当主の手によって集められた。これらが現在のピッティ美術館の中心となる収蔵品である。 1737年、メディチ家最後のトスカーナ大公であるジャン・ガストーネが、後継ぎの男児が生まれないまま死去。少し遅れて1743年には、彼の姉であり最後のメディチことアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチも世を去った。アンナ・マリーアの死によってメディチ家の主流が断絶したため、トスカーナ大公の地位およびピッティ宮殿の主人の座はロートリンゲン家のフランチェスコ2世(神聖ローマ皇帝フランツ1世)が継承することになった。 アンナ・マリーアはその死に際し、「メディチ家のコレクションをフィレンツェから持ち出さない」ことを条件に、すべての美術品をトスカーナ政府に寄贈する遺言を残した。これによってメディチ家の収集品は散逸を免れた。
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