メディチ家の為に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 23:16 UTC 版)
「アンドレア・デル・ヴェロッキオ」の記事における「メディチ家の為に」の解説
ヴェロッキオは、コジモ、ピエロ、ロレンツォの3代に亘って、メディチ家の強力な支援を受け、制作に励んだ。 彼の現存する最初の作品は、サン・ロレンツォ聖堂の主祭壇前の地下に埋葬されたコジモ・デ・メディチのための、床に設置する墓標である。 コジモが亡くなった後、彼はコジモの息子であるピエロ・デ・メディチの強力な支援を受けた。先述したように、1460年代後半になってヴェロッキオには仕事が次々と舞い込むようになったが、それはピエロ・デ・メディチの存在が大きい。ピエロは「聖トマスの懐疑」を発注した商業裁判所の評議会メンバーであり、またフィレンツェ大聖堂の円球の制作委嘱に関しては、ヴェロッキオへの支払いの代理人をも務めている。 ブロンズによる彫像の「イルカと天使」と「ダヴィデ像」も1470年代初頭の作品であるが、この2つもピエロ・デ・メディチの発注によるものであるという。ヴァザーリによれば「イルカと天使」は彼の別荘のため注文された噴水用の作品で、コジモ1世のときにヴェッキオ宮殿の中庭に移された。現在はヴェッキオ宮殿の中庭の噴水にレプリカが展示されており、宮殿併設の美術館3階に本物が展示されている。 「ダヴィデ像」の制作年は不明だが、ドナテッロのダヴィデ像の代わりに発注された可能性が強く、モデルが弟子のレオナルドであるとする説があるが、あくまで一説にすぎない。1476年にロレンツォとジュリアーノの兄弟によって150フィオリーノで政庁に売り渡されている。 1470年代に入り、パトロンであったピエロが亡くなり、その息子のロレンツォ・デ・メディチを新たなパトロンとするようになった。パトロンの庇護のもと製作に励むお抱え芸術家となった彼は、1472年にはフィレンツェに工房を構え、ボッティチェリ、ペルジーノ、レオナルド・ダ・ヴィンチと一緒に聖ルカ組合の会員となった。ロレンツォの注文による最初の作品はピエロ及びジョヴァンニ・デ・メディチの墓碑であり、手洗盤も彼の注文によるほぼ同じ時期の作品である。 この2つは同じ室内に設置され、また2つともにデジデーリオ・ダ・セッティニャーノの『カルロ・マルスッピーニの墓碑』という作品による影響が見られ、ピエロとジョヴァンニのための墓碑では墓棺を支えるブロンズの獅子の脚や葉を用いた装飾などに、手洗盤の方は盤を飾る一対のハルピュイアのモチーフ部に、そのデジデーリオの作品からの着想が見られる。ヴェロッキオは絵画や彫刻、鋳造などの上記の作品のほかにも、厳粛な祭礼や騎士の馬上試合、メディチ家の饗宴の為に、装飾的な甲冑や衣装をデザインしたという記録が残っている。 ちなみにメディチ家以外にも、ローマのシクストゥス4世の為に作品を制作したという。 彼の死後、1495年に弟のトンマーゾがメディチ家の未払いの報酬を請求するために、リストを作成した。そのリストによると、メディチ家のためにかなり多くの仕事をこなしていたことが分かる。
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