メディチ家による修道院再建
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「サン・マルコ美術館」の記事における「メディチ家による修道院再建」の解説
こうして、1437年、コジモは、メディチ家贔屓の建築家ミケロッツォに当時最新のルネサンス様式で修道院を再建するよう依頼した。1438年に着工された建設は5年の歳月を経て、1443年の公現祭(1月6日)の夜には教皇エウゲニウス4世、カプア大司教、ニッコロ・ダッチャパッチョ枢機卿隣席のもと修道院は聖別されたことにより、完成となった。こうして、この新しい修道院は、「メディチ家の地域」とも通称されるフィレンツェ市街地北部に位置するパラッツォ・メディチ・リッカルディとサン・ロレンツォ聖堂と並ぶ主要な建築物となった。メディチ家の文芸保護活動は、とりわけバーゼルで開始された宗教会議の開催地を1439年にフィレンツェへ移した機会に頂点に達したのである(フィレンツェ公会議)。 コジモは、ヴァザーリが芸術家列伝において証言している通り、4万フィオリーニ以上もの巨額な財産を修道院再建に支出した。建築家ミケロッツォは1439年から1444年にかけて仕事をした。建築様式は簡素でありながら優美で機能性を備えたものであった。壁面は白の漆喰で塗られ、空間は二つの回廊付き中庭(サンタントニーノの回廊とサン・ドメニコの回廊)に分けられた。1階部分には司教座聖堂賛辞会議室、二つの食堂、客人宿泊室が設けられた。2階には修道士たちの独房が造営された。これらの独房は、各々独立した小部屋であるが一つの大きな木組みの天井で結合している。北面に位置する回廊、司教座聖堂賛辞会議室、共同寝室は、1440年-1441年に完成した。他方、南面に位置し広場に面する共同寝室は1442年に完成した。その他の建設工事は1452年まで継続された。 修道院のなかで最も卓越した空間は2階の図書室である。穹窿天井をもち、二列に並ぶ列柱により三つの分けられた(三身廊)開放感あふれる空間である。多数の窓から自然光が入り、内部を明るく照らしていることから、修道士たちが行った研究や読書、手稿本の写生を助けたことであろう。この場所で、アーニョロ・ポリツィアーノやピコ・デッラ・ミランドラのような人文主義者たちは、メディチ家が蒐集したギリシャ語やラテン語で書かれた貴重な図書を研究したのである。
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