メディチ家による修道院再建とは? わかりやすく解説

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メディチ家による修道院再建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:43 UTC 版)

サン・マルコ美術館」の記事における「メディチ家による修道院再建」の解説

こうして、1437年コジモは、メディチ家贔屓建築家ミケロッツォ当時最新ルネサンス様式修道院再建するよう依頼した1438年着工され建設5年歳月経て1443年公現祭1月6日)の夜に教皇エウゲニウス4世カプア大司教、ニッコロ・ダッチャパッチョ枢機卿隣席のもと修道院聖別されたことにより、完成となった。こうして、この新し修道院は、「メディチ家地域」とも通称されるフィレンツェ市街地北部位置するパラッツォ・メディチ・リッカルディとサン・ロレンツォ聖堂と並ぶ主要な建築物となったメディチ家文芸保護活動は、とりわけバーゼル開始され宗教会議開催地を1439年フィレンツェへ移した機会頂点達したのであるフィレンツェ公会議)。 コジモは、ヴァザーリ芸術家列伝において証言している通り、4フィオリーニ以上もの巨額な財産修道院再建支出した建築家ミケロッツォ1439年から1444年にかけて仕事をした。建築様式簡素ありながら優美機能性備えたものであった壁面は白の漆喰塗られ空間二つ回廊付き中庭サンタントニーノの回廊とサン・ドメニコの回廊)に分けられた。1階部分には司教座聖堂賛辞会議室二つ食堂客人宿泊室設けられた。2階には修道士たちの独房造営された。これらの独房は、各々独立した小部屋であるが一つ大きな木組み天井結合している。北面位置する回廊司教座聖堂賛辞会議室共同寝室は、1440年-1441年完成した他方南面位置し広場面する共同寝室1442年完成したその他の建設工事1452年まで継続された。 修道院のなかで最も卓越した空間2階図書室である。穹窿天井をもち、二列に並ぶ列柱により三つ分けられた(三身廊)開放感あふれる空間である。多数の窓から自然光入り内部明るく照らしていることから、修道士たちが行った研究読書手稿本写生助けたことであろう。この場所で、アーニョロ・ポリツィアーノやピコ・デッラ・ミランドラのような人文主義者たちは、メディチ家蒐集したギリシャ語ラテン語書かれ貴重な図書研究したのである

※この「メディチ家による修道院再建」の解説は、「サン・マルコ美術館」の解説の一部です。
「メディチ家による修道院再建」を含む「サン・マルコ美術館」の記事については、「サン・マルコ美術館」の概要を参照ください。

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