アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 貴族 > メディチ家 > アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチの意味・解説 

アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/11 16:37 UTC 版)

アンナ・マリーア・ルイーザ・
デ・メディチ
Anna Maria Luisa de'Medici
プファルツ選帝侯妃
在位 1691年 - 1716年

出生 (1667-08-11) 1667年8月11日
トスカーナ大公国フィレンツェピッティ宮殿
死去 (1743-02-18) 1743年2月18日(75歳没)
トスカーナ大公国フィレンツェピッティ宮殿
埋葬 トスカーナ大公国フィレンツェサン・ロレンツォ聖堂
配偶者 プファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム
家名 メディチ家
父親 トスカーナ大公コジモ3世
母親 マルゲリータ・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=オルレアンス
テンプレートを表示

アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチAnna Maria Luisa de'Medici, 1667年8月11日 - 1743年2月18日)は、ピッティ宮殿で暮らした最後のメディチ家直系の人物。

生涯

トスカーナ大公コジモ3世マルゲリータ・ルイーザオルレアン公ガストンの娘)の娘としてフィレンツェに生まれた。トスカーナ大公子フェルディナンドは兄、最後のメディチ家のトスカーナ大公ジャン・ガストーネは弟である。父コジモ3世は男児が生まれないことを憂慮して、アンナ・マリーアをジャン・ガストーネの次期大公とすべく奔走したが、叶わなかった。

1691年プファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムと結婚。子供のないまま1716年に夫と死別した。フィレンツェに戻ったアンナ・マリーアはピッティ宮殿に暮らした。厳格で超然とした人物だったと伝えられており、ミサや慈善活動に私財を投じ、サン・ロレンツォの一族の霊廟を訪れていたという。

1743年に死去。アンナ・マリーアは遺言として「メディチ家のコレクションがフィレンツェにとどまり、一般に公開されること」を条件に、すべての美術品をトスカーナ政府に寄贈した。これによりメディチ家の財産は、フィレンツェの遺産として現代まで遺されることとなった。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ」の関連用語

アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS