1996年-2001年:ソロとしての音楽キャリア、2012年-現在:作家として
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「ジョン・テイラー (ベーシスト)」の記事における「1996年-2001年:ソロとしての音楽キャリア、2012年-現在:作家として」の解説
1996年、テイラーはプロデューサーのハイン・ホーヴェンとともにインディペンデントのレコードレーベルのB5レコーズを共同設立した。 B5レコーズはもともとハインの自宅のレイクハリウッドで始まったが、しかし最終的にはサンタモニカの最先端のスタジオに移され「海のB5」とよばれた。このレーベルにはカピルマートゥルによってつくられた最先端のウェブサイトがあり、B5スタジオを仮想的に旅し、訪問者が仮想環境でモバイルアバターを利用してテイラーとハインと「交流」することを可能にした。 B5で、テイラーは初のソロ・アルバムである『フィーリングス・アー・グッド・アンド・アザー・ライズ』の歌とギター、ベースの演奏をし、セックス・ピストルズのスティーヴ・ジョーンズとコラボレーションをした。 自家製のアルバムは通販で販売されており、またウェブサイト経由でも直接CDを販売した。 音楽とボーカルは荒削りで未熟であり、デュラン・デュランよりも全体的にグランジやパンクミュージックに似ているが、歌詞にはテイラーのカオス的な人生とデ・カドネとの離婚が反映されていた。彼は1996年後半にパワー・ステーション再始動のためのアルバム作りに参加したが、個人的な問題によってプロジェクトから撤退し、バーナード・エドワーズとともにベースを録音し、雇用されたベースプレイヤーとツアーを続けた。デュラン・デュランのクリエイティブな違いが広がり、彼はロサンゼルスへ移住し、ソロ活動に専念したいという願望もあってバンドでの自分の役割を再考した。1997年1月、彼はデュラン・デュランのファンイベントの際にバンドを離れることを発表した。 彼は間もなくB5レコードでの自身の作品をレコーディングし、『Autodidact』『Feelings Are Good』EPをリリースし、よりカナダの大きいレーベルのDeRockRecordsによって再リリースされた。B5はそれからテイラーと何人かのロサンゼルスの地元アーティストによるロキシー・ミュージックをリメイクした『Dream Home Heartaches... Remaking/Remodeling Roxy Music』という名のトリビュート・アルバムを発表した。ハインが会社を辞める前に、レーベルはL.A. quartet Three Alarm Fireのアルバム『Sub-Acid Sweet Songs』を制作した。その後、B5レコードと大いに簡略化されたウェブサイトは「Trust The Process」に名前を変え、ほかのことを開発するのではなくテイラーのソロ活動を促進することに専念した。 1997年から1998年の間に、 テイラーは「John Taylor Terroristen」 (ギターにジェリー・ラフィ、キーボードにマイケル・レイトンとティオ・バンクス、ドラムにラリー・エイバーマン、サックスとフルートにジョン・アマト)と呼ばれるバンドをつくり、そして米国の東西海岸でのツアーの前に南カリフォルニアで多数のショーを演じた。TerroristenはライブEPである『5.30.98』と「Trust The Prosess」のウェブサイトを通じて付属のビデオである『Better Off Alive』をリリースした。 9.11(アメリカ同時多発テロ事件)の後、テイラーは「Terroristen」というバンド名を使用しないと発表した。 テイラーはまた演技への志向を持ち始めた。アリソン・アンダースとの長い友情は、彼を1998年の独立系の映画『Sugar Town』の主役に導いた。彼はまた数年後にはいくつかのほかの映画やテレビ番組に脇役で登場した。 1999年にテイラーはかつて作っていた楽曲による2枚のアルバムをリリースした。最初の『Résumé』は1985年に映画『ナインハーフ』のサウンドトラックの制作のためにジョナサン・エリアスとセッションしていた未発表曲で構成されていた。2つめの『Meltdown』は1992年テイラーがデュラン・デュランの『ザ・ウェディング・アルバム』の制作が大幅に遅れている中でテイラーが1992年に発表したトラックのコレクションであった。テイラーは「ヒップホップの影響のアップビートのダンスエレクトロニカ」と述べており、歌詞の一部はデュラン・デュランのライフスタイルと彼の不満を明らかにしたものである。彼はその時期にバンドを脱退間近までいったが1993年の「Ordinaly World」と「Come Undone」の突然の成功に助けられたと述べた。1999年後半、テイラーは日本のレコード会社avex traxと契約を結び、シンプルに『ジョン・テイラー』と題されたアルバムを制作したが、彼の公式なディスコグラフィには『The Japan Album』と記載されている。John Taylor Terroristenは日本、ドイツ、アメリカでより多くのツアーをした。Trust The Processウェブサイトは日本限定盤の付属のEPをリリースし、その後、同年中のテイラーのライブ・パフォーマンスの未修整の録音をフィーチャーした「海賊版アルバム」の『Live Cuts』をリリースした。 彼は2000年にAvaxでレコーディングを続け、2001年のはじめに『テクノ・フォー・ツー』 (マシュー・ハガーによって書かれた国際的にヒットした「6,000 Miles」を含む)をリリースし、それは非常に個人的な曲で満たされた意識的な非テクノアルバムであった。その直後、デュラン・デュランの再結成のために始まった話し合いにより、テイラーは過去5年間の彼の発展を実証する「Retreat Into Art」と呼ばれる回顧的なパッケージをデザインすることを決めた。サイン入りの999箱の限定盤には2枚のCDに加え、ポスター、ポストカードほかが入っていた。サインされた箱が完売した後、2枚組CDのセットは独自に販売された。 テイラーの最後のソロ・リリースはデュラン・デュランが再結成した後に完成した、2002年にリリースされた『Meta Four』コレクションであった。アルバムは4テーマ別のセクションに分かれている。 最初のものには1992年の映画『Mi Vida Loca』のために作られたインストゥルメンタル音楽を含んでいる。2つめは、テイラーの初期のソロキャリアの中の様々な未発表ライブパフォーマンスが収録されている。3枚目には音源やデモが含まれている。最後のセクションでは1998年にハリウッドで参加したミュージシャンズ・インスティチュートでの17分の質疑応答が含まれている。 2012年10月に『In the Pleasure Groove: Love, Death and Duran Duran』という自伝を発表した。2013年にはライター・オブ・トリートメント団体はテイラーに彼の業績を讃える「経験、強さと希望」賞を授与した。
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