1996年-1999年 カジノ時代
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「AG2R・シトロエン・チーム」の記事における「1996年-1999年 カジノ時代」の解説
1996年、1月になっても資金調達できておらずラヴニュはチームのサポーターからサブスクリクション形式での資金提供を開始した。また地元のスーパーマーケットチェーン店ブティ・カジノとパトーナーシップを結びプティ・カジノ=セ・ヴォトル・エキップ(Petit Casino-C'est votre équipe)に改称。これによりフランスを代表する選手の一人、アルマンド・デ・ラス・クエバスとの契約が実現する。ドーフィネ・リベレではカスプティスがステージ優勝し、数日間リーダージャージを着用した。しかし、新加入のデ・ラス・クエバスはシーズンを通して体調を崩してしまい、チームはツール・ド・フランスにも参加を見送った。2年連続出場となったブエルタ・ア・エスパーニャではパスカル・シャントゥーとファブリス・グーゴの2人が総合30位以内に入った。夏の終わりにはカジノグループが大幅に増資し、チームはアトランタオリンピックチャンピオンのパスカル・リシャールと契約した。 1997年、カジノが増資する中、さらにAG2R・プレヴォワイアンスがセカンドスポンサーに加わり、チーム名はカジノ=セ・ヴォトル・エキップ(Casino-C'est votre équipe)に改称、チームの予算は2500万フランにまで倍増した。アマチュアクラブチームのEC・サンティティエンヌ・ロワールとパートナーシップを結んだ。この年はリシャールに加え、ジャッキー・デュラン、アルベルト・エッリ、ロルフ・イェルマン、ロドルフォ・マッシらが加入した。シーズン序盤、マッシがツール・デュ・オー・ヴァルで優勝、エッリはミラノ〜サンレモでエリック・ツァベルとのスプリントには敗れたものの2位表彰台。クリストフ・アニョルットがツール・ド・スイスで大逃げを決めて第3ステージで優勝、リーダージャージを守りきり総合優勝を果たし、チームに最大の勝利をもたらした。ステファヌ・バルトはフランスチャンピオンになり、キルシプーは安定した走りでトップスプリンターの1人となった。この年、例年UCIランキング30位前後が定位置だったチームはランキング12位となり飛躍的な躍進を遂げた。 1998年、カジノ(Casino)に改称。チーム史上最高の1年となったこの年は1月から10月にかけて16人の選手が活躍し、シーズン65勝を挙げた。主な勝利としてはグランプリ・ドゥヴェルテュール・ラ・マルセイエーズ(マルコ・サリガーリ)、フレッシュ・ワロンヌ(ボー・ハンバーガー)、、ティレーノ〜アドリアティコとアムステル・ゴールドレース(ロルフ・イェルマン)、パリ〜ツール(ジャッキー・デュラン)。グランツールにも参加し、ツール・ド・フランスでデュランとマッシがステージ優勝し、ハンバーガーがマイヨ・ジョーヌを着用。ブエルタ・ア・エスパーニャではキルシプーがステージ勝利を挙げた。他にもクープ・ド・フランスのチームランキングでも優勝。最終的にUCIランキング2位、ワールドカップランキングでも3位とさらなる躍進を遂げた。 1999年、カジノ=Ag2r・プレヴォワイアンス(Casino-Ag2r Prévoyance)に改称。前年のツール・ド・フランス期間中に発覚したフェスティナ事件や、それに伴う捜査の中でマッシが逮捕 (後に不起訴) されたことなどもありカジノの投資にもブレーキがかかった結果、前年多くの勝利を挙げた選手が去った。前年、6勝を挙げたアレクサンドル・ヴィノクロフがチームのリーダーになり、ヴィノクロフはドーフィネ・リベレの総合優勝を含む7勝をあげた。エーススプリンターのキルシプーはツール・ド・フランス初勝利を含む18勝を挙げて6日間マイヨ・ジョーヌにも袖を通した。ブノワ・サルモンはツール・ド・フランスで総合16位になりヤングライダー賞を獲得。ほかにもサルモンはグランンプリ・デュ・ミディ・リブレで区間1勝と総合優勝を挙げたほか、ジル・マイニャンのフランス選手権個人タイムトライアル優勝など注目すべき成功を収めたが、カジノのスポンサードはこの年で終了した。
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