1956年総裁選での活躍とは? わかりやすく解説

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1956年総裁選での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「1956年総裁選での活躍」の解説

保守合同による自由民主党結党後閣僚入れ替えが行われ、第3次鳩山内閣成立した保守合同時、実力者河野一郎は旧改進党として、副総理外務大臣重光葵留任含み閣僚ポスト3を約束していた。組閣にあたり改進党のうち、2枠留任1枠新入閣とされた。第2次鳩山内閣の旧改進党閣僚重光以外に運輸大臣三木文部大臣松村謙三国家公安委員長大麻唯男の3名であった調整結果、まず新入閣として清瀬一郎確定した重光以外の留任閣僚については、三木大麻松村三木推薦したが、大麻は自らの留任希望しポストについても国家公安委員長留任譲ろうとしなかった。結局大麻国家公安委員長留任し三木松村閣外去った松村大麻の関係は民政党以来のものであったが、第3次鳩山内閣での留任閣僚に関す経緯により、長年交友関係続いてきた大麻対す感情悪化させ、逆に松村改進党幹事長に就任した頃から接近していた三木との関係がより強化されることに繋がった鳩山総裁11月2日日ソ共同宣言締結花道退陣表明する。後継総裁候補は旧改進党系から松村擁立する声が上がったものの、松村では党内支持広められないこともあり、結局石橋湛山石井光次郎岸信介の3名に絞られることになった結党間もない自民党にとって激し総裁選党分裂に繋がると危惧され話し合い選出試みられたが不調に終わり激し選挙戦突入した三木石田博英とともに石橋陣営中心的役割担った三木最初から石橋親し間柄にあったわけではない石橋第1次吉田内閣大蔵大臣であった時点では、三木野党協同民主党党首であり、国会論戦では積極財政進めた石橋の経済政策について追及していた。三木石橋との関係が深まるのは石橋公職追放解除された後と考えられている。三木石橋の自由主義民主主義国際主義、そして平和主義者としての姿勢感銘を受け、石橋のことを高く評価するようになっていく。また、三木よりも23歳年上であった石橋は、三木言わせると父、久吉によく似ていたという。一方対立候補の岸についてはA級戦犯容疑かけられ過去もあって、三木厳し目を向けていた。実父によく似ているという親近感加えて石橋の政治姿勢思想深く共鳴した三木は、岸への反発心も手伝って石橋擁立中核として奔走することになった三木早くも1956年3月には石橋側近石田博英石橋擁立持ちかけ、その後松村擁立固執する三木松村系の議員対す説得活動進め8月には三木松村系の議員石橋支持固めた鳩山引退表明後の11月13日、旧改進党の有力議員である三木松村大麻北村苫米地芦田会談行い後継総裁について協議した。6名の参加者のうち大麻のみ岸を支持し、あとの5名は石橋支持固まった。旧改進党議員多くは岸に強く反対しており、12月1日の旧改進党系の会合では、岸総裁となれば脱党する方針まで確認された。三木は旧自由党系にも触手を伸ばし吉田系を中心に石橋支持広めた総裁選開始当初石橋は岸、石井及ばず3位甘んじるとの見方大勢であったが、三木石田らの活躍によって鳩山政権下での反主流派糾合成功し急速に支持拡大した。また三木当時資金調達面でも優れた能力発揮しており、石橋陣営活動資金調達にも大きな役割担った見られている。そして石橋支持三木石田石井支持池田勇人総裁選前日夜に協議し、もし総裁選決選投票となった場合三位候補二位候補投票するいわゆる二、三連合成立した。旧自由党系のつながり池田表向き石井支持派であったが、前述第一次吉田内閣大蔵大臣時、石橋池田大蔵事務次官抜擢しており、池田石橋に対して恩義感じていた。また石橋池田はともに積極財政論者であって政策面からも近く実際に石橋支持動いており、三木に対しても、「改進党系の君と、自由党系の僕が仲良く手を結ぶことが、保守合同完成意味する」と公言していた。この池田事実上石橋支持は、総裁選で最も劣勢目されていた石橋が、総裁選第1回目投票石井かわして2位となる要因となった1956年昭和31年12月14日第3回自民党大会で行われた総裁選は、第一回投票では予想通り岸が第一位となった過半数の票獲得には至らなかったため、岸と石橋間で決選投票となり、二、三連合により石井支持者石橋投票したため、わずか7票差で石橋総裁当選した決選投票でわずか7票差で涙を呑んだ岸は、石橋に対して外務大臣ポスト要求し、自らの支持者に対してポスト配分を行うよう求めた上で党内融和協力する表明した総裁選辛勝した石橋党内諸勢力配慮せざるを得ず党人事、組閣難航したが、年末には自民党新執行部石橋内閣発足し三木石橋総裁から幹事長に指名された。なおポスト配分ある程度成果挙げた判断した岸は総裁選結果受け入れ自民党から脱党することはなかった。 自民党結成直後党内には11グループ存在すると言われ三木は旧改進党系の5グループのうちの1グループ率いていた。しかし1956年昭和31年)の激し総裁選結果党内派閥形成されるようになった自民党内には岸派佐藤派池田派大野派石井派河野派石橋派、そして旧改進党系を中心とした三木松村派8つ派閥形成され三木自民党の派閥領袖一人となった

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