1956年総裁選での活躍
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「三木武夫」の記事における「1956年総裁選での活躍」の解説
保守合同による自由民主党結党後、閣僚の入れ替えが行われ、第3次鳩山内閣が成立した。保守合同時、実力者の河野一郎は旧改進党枠として、副総理兼外務大臣の重光葵留任含みで閣僚ポスト3を約束していた。組閣にあたり旧改進党枠のうち、2枠は留任、1枠が新入閣とされた。第2次鳩山内閣の旧改進党閣僚は重光以外に運輸大臣の三木、文部大臣の松村謙三、国家公安委員長の大麻唯男の3名であった。調整の結果、まず新入閣として清瀬一郎が確定した。重光以外の留任閣僚については、三木は大麻、松村は三木を推薦したが、大麻は自らの留任を希望し、ポストについても国家公安委員長留任を譲ろうとしなかった。結局大麻が国家公安委員長に留任し、三木と松村は閣外に去った。松村と大麻の関係は民政党以来のものであったが、第3次鳩山内閣での留任閣僚に関する経緯により、長年の交友関係が続いてきた大麻に対する感情を悪化させ、逆に松村が改進党幹事長に就任した頃から接近していた三木との関係がより強化されることに繋がった。 鳩山総裁は11月2日、日ソ共同宣言締結を花道に退陣表明する。後継総裁の候補は旧改進党系から松村を擁立する声が上がったものの、松村では党内で支持を広められないこともあり、結局石橋湛山、石井光次郎、岸信介の3名に絞られることになった。結党間もない自民党にとって激しい総裁選は党分裂に繋がると危惧され、話し合い選出が試みられたが不調に終わり、激しい選挙戦に突入した。三木は石田博英とともに石橋陣営の中心的役割を担った。 三木は最初から石橋と親しい間柄にあったわけではない。石橋が第1次吉田内閣で大蔵大臣であった時点では、三木は野党の協同民主党党首であり、国会の論戦では積極財政を進めた石橋の経済政策について追及していた。三木と石橋との関係が深まるのは石橋が公職追放解除された後と考えられている。三木は石橋の自由主義、民主主義、国際主義、そして平和主義者としての姿勢に感銘を受け、石橋のことを高く評価するようになっていく。また、三木よりも23歳年上であった石橋は、三木に言わせると父、久吉によく似ていたという。一方、対立候補の岸についてはA級戦犯容疑がかけられた過去もあって、三木は厳しい目を向けていた。実父によく似ているという親近感に加えて、石橋の政治姿勢、思想に深く共鳴した三木は、岸への反発心も手伝って、石橋擁立の中核として奔走することになった。 三木は早くも1956年3月には石橋側近の石田博英に石橋擁立を持ちかけ、その後松村擁立に固執する三木、松村系の議員に対する説得活動を進め、8月には三木、松村系の議員を石橋支持で固めた。鳩山引退表明後の11月13日、旧改進党の有力議員である三木、松村、大麻、北村、苫米地、芦田が会談を行い、後継総裁について協議した。6名の参加者のうち大麻のみ岸を支持し、あとの5名は石橋支持で固まった。旧改進党系議員の多くは岸に強く反対しており、12月1日の旧改進党系の会合では、岸総裁となれば脱党する方針まで確認された。三木は旧自由党系にも触手を伸ばし、吉田系を中心に石橋支持を広めた。総裁選開始当初、石橋は岸、石井に及ばず3位に甘んじるとの見方が大勢であったが、三木、石田らの活躍によって鳩山政権下での反主流派の糾合に成功し、急速に支持を拡大した。また三木は当時、資金調達面でも優れた能力を発揮しており、石橋陣営の活動資金調達にも大きな役割を担ったと見られている。そして石橋支持の三木と石田、石井支持の池田勇人が総裁選前日夜に協議し、もし総裁選が決選投票となった場合は三位候補は二位候補に投票する、いわゆる二、三位連合が成立した。旧自由党系のつながりで池田は表向きは石井支持派であったが、前述の第一次吉田内閣の大蔵大臣時、石橋は池田を大蔵事務次官に抜擢しており、池田は石橋に対して恩義を感じていた。また石橋と池田はともに積極財政論者であって政策面からも近く、実際には石橋支持で動いており、三木に対しても、「改進党系の君と、自由党系の僕が仲良く手を結ぶことが、保守合同の完成を意味する」と公言していた。この池田の事実上の石橋支持は、総裁選で最も劣勢と目されていた石橋が、総裁選第1回目の投票で石井をかわして2位となる要因となった。 1956年(昭和31年)12月14日、第3回自民党大会で行われた総裁選は、第一回投票では予想通り岸が第一位となったが過半数の票獲得には至らなかったため、岸と石橋間で決選投票となり、二、三位連合により石井支持者が石橋に投票したため、わずか7票差で石橋が総裁に当選した。決選投票でわずか7票差で涙を呑んだ岸は、石橋に対して外務大臣のポストを要求し、自らの支持者に対してもポスト配分を行うよう求めた上で党内融和に協力する旨表明した。総裁選に辛勝した石橋は党内の諸勢力に配慮せざるを得ず、党人事、組閣は難航したが、年末には自民党新執行部、石橋内閣が発足し、三木は石橋総裁から幹事長に指名された。なおポスト配分である程度の成果を挙げたと判断した岸は総裁選の結果を受け入れ、自民党から脱党することはなかった。 自民党結成直後、党内には11のグループが存在すると言われ、三木は旧改進党系の5グループのうちの1グループを率いていた。しかし1956年(昭和31年)の激しい総裁選の結果、党内に派閥が形成されるようになった。自民党内には岸派、佐藤派、池田派、大野派、石井派、河野派、石橋派、そして旧改進党系を中心とした三木・松村派の8つの派閥が形成され、三木は自民党の派閥の領袖の一人となった。
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