1930年 - 1934年:ドイツ、デンマーク、スウェーデン
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「ヴィルヘルム・ライヒ」の記事における「1930年 - 1934年:ドイツ、デンマーク、スウェーデン」の解説
ライヒは1930年11月に、妻とともにベルリンに移り住んだ。1930年代には、精神分析とマルクス主義を調和させようと試みていた若い分析家やフランクフルトの社会学者達の潮流に属していた。この頃は初期フロイトの路線を強調した上で精神分析に政治的な視点をもたらし、精神分析とマルクス主義を結びつけようと試みた。労働者階級の地域に診療所を開設し、性教育を行い、パンフレットを出版した。ドイツ共産党に入党したが、彼のパンフレットの一つである Der Sexuelle Kampf der Jugend (青年の性的闘争、1932年。1972年にThe Sexual Struggle of Youthとして英語で出版)の出版が遅れたことに焦り、自分で Verlag für Sexualpolitik という出版社を設立し、パンフレットを作成することになった。 その後、ライヒは思春期の性愛を促進する会議に参加し、党はそのために、彼の資料を今後出版しないと発表した。1933年3月24日にフロイトから、国際精神分析出版社との『性格分析』の出版契約が解除されたと告げられた。シャラフは、これはほぼ間違いなく、ライヒの10代のセックスに対する姿勢のせいだったと書いている。 ライヒは1933年に、ロバート・S・コリントン(英語版)が代表作と呼ぶ『Charakteranalyse: Technik und Grundlagen für studierende und praktizierende Analytike(性格分析)』を出版した。本書は1946年、1949年に改訂され、『Character Analysis』として英語で出版された。本書は、精神分析を性格構造の再構成へと向かわせようとしたものである。ライヒにとって、性格構造は社会的プロセスの結果であり、特に、核家族内で繰り広げられる去勢不安(英語版)とエディプス・コンプレックスの反映だった。 レス・グリーンバーグ(英語版)とジェレミー・サフランによると、ライヒは、性格、感情のブロック、身体の緊張、あるいは彼が性格(あるいは筋肉/身体)の鎧(Charakterpanzer)と呼んだものとの間の、機能的同一性を示唆した。 ライヒは、筋肉の鎧は、患者のトラウマの歴史を内包する防衛であると提唱した。例えば、フロイトの顎の癌は、喫煙のせいではなく、筋肉の鎧のせいだとした。フロイトのユダヤ教では、衝動を表現するのではなく、「噛み砕く」ことを意味していた。鎧を開放すると、そもそもブロックの原因であった幼少期の抑圧の記憶がよみがえるのである。 ライヒはアニー・ライヒとの結婚期間中に何度か浮気をしたが、1932年5月に、ダンサーのエルザ・リンデンベルク(体操教師でボディワークのパイオニアのエルザ・ギンドラー(英語版)の門下)と真剣交際を始め、1933年に破局した。ヒトラーが首相に就任した1933年1月には、リンデンベルグとドイツで暮らしていた。同年3月2日、ナチスの新聞『フェルキッシャー・ベオバハター』が『Der Sexuelle Kampf der Jugend(青年の性的闘争)』に対する攻撃記事を掲載した。ライヒとリンデンベルクは、翌日ウィーンに向かった。ライヒはデンマーク共産党(英語版)に入党していなかったが、1933年11月にデンマーク共産党から除名を宣言された。中絶の奨励、性教育、10代の患者の自殺未遂など、複数の苦情が寄せられた。ターナーによると、ライヒのビザが切れても、更新されなかった。 彼は、イギリスに定住したいと考え、英国の精神分析家の間で支援を得ようと、ロンドンでアーネスト・ジョーンズ、メラニー・クライン、ジョアン・リヴィエール(英語版)、ジェームズ・ストラチェイ(英語版)に面接を受けた。彼らは、ライヒは「教育分析が十分ではない」と判断し、フロイトに対して解消されない敵意を抱いていると考えた。ジョーンズは、ライヒがイギリスに移住を希望していることについて、フロイトの娘のアンナ・フロイトに連絡を取り、彼女は1938年にこう書いている。「彼にはどこか、相手の視点を理解することをやめ、彼自身の世界に没入してしまう、そんな壁があるようです…彼は不幸な人です…このままでは、病気になるのではないかと心配です。」 ライヒとリンデンベルクは、代わりにスウェーデンのマルメに移り、ライヒはそこを「強制収容所よりまし」と評した。警察は、彼のホテルの部屋に患者が定期的に訪れるのは、彼がリンデンベルクに売春をさせているのではないかと疑い、二人は監視下に置かれた。 政府はビザを延長せず、二人はデンマークに一時帰国することになり、ライヒは偽名で生活した。 自身の研究を植物神経療法として発展させた。1933年に、集団心理学の見地からナチスに代表されるファシズムを性的抑圧によるノイローゼ患者のサディスティックな表現と分析した『ファシズムの大衆心理』を上梓。
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