1930年、テューリンゲン
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「退廃芸術」の記事における「1930年、テューリンゲン」の解説
ナチスの支持が高まり、かれらが政権に就き始めると、早速近代美術を公の場から追放しようという「絵画嵐」(Bildersturm、元の意味は宗教改革時の聖像破壊運動を指していた)が始まった。 1929年、ナチスはドイツ中部の農村地帯、テューリンゲン州で11%の得票を得た。ヒトラーは連立交渉の難航を受けてヴァイマルに赴き、地元有力者を前にナチスの経済政策を説明して感服させ、ナチスを泡沫政党と見ていた諸政党も連立相手としてナチスを考えざるを得なくなった。1930年1月、州の内務大臣・国民教育大臣にナチス推薦のヴィルヘルム・フリックが選出されると、彼はローゼンベルクの「ドイツ文化のための闘争同盟」と組み、「ドイツで強まる文化面での黒人種など他民族の影響により、ドイツの民族性や道徳が基盤から崩れようとしている」という文章を4月に官報に載せ、州の芸術系大学を改編してバウハウス色の一掃のためその長官にシュルツェ=ナウムブルクを任命した。シュルツェ=ナウムブルクは持論の「北方的なものの賛美、東方的なものの侮蔑」に基づき、イーゴリ・ストラヴィンスキーなど近代の音楽家の楽曲の演奏を禁じたほか、10月3日、大学内のオスカー・シュレンマー(元バウハウス教授)の壁画を塗りつぶし、ヴァイマル城内美術館の展示室からカンディンスキー、ノルデ、ココシュカなどの近代絵画・彫刻70点を撤去させた。 翌1931年4月にフリック内務相は共産党によって解任され、シュルツェ=ナウムブルクも職を追われる。しかし、これは後にドイツに吹き荒れる「絵画嵐」の始まりに過ぎなかった。この時期、「ドイツ文化のための闘争同盟」はザクセン・ツヴィッカウで近代美術を購入した美術館長を解雇させることに成功した。
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