香取海
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香取海(かとりのうみ)は、古代の関東平野東部に太平洋から湾入した内海で、香取神宮の目前に広がり、さらに西の内陸方向へ延びていていたものを指す[注 1]。その細長い湾入部は「榎浦」と呼ばれた。古文書には内海(うちうみ)、流海(ながれうみ)、浪逆海(なさかのうみ)などの名でも現れる[1]。
注釈
- ^ 下総国・常陸国の歌枕として万葉集に「香取の海、香取の浦」が現れる。
- ^ 相模国と下総国との間は、当初は上総国経由だったが、宝亀2年(771年)に武蔵国が東海道に移され武蔵国を通るようになった。
- ^ 取手市の中妻貝塚から出土した人骨のミトコンドリアDNA分析で、茂原市の下太田貝塚のものと共通のハプロタイプが認められ九十九里浜方面との繋がりを窺わせる。
- ^ 香取海の南側の栗山川/椿海水系では日本全体の40パーセントに相当する80例もの丸木舟の出土がある。
- ^ 印旛沼の汽水化進行や鬼怒川からの土砂流入などの考古学的知見からも香取海の海域が推定される(「印旛沼物語」白鳥孝治、印旛沼流域水循環健全化調査研究報告第2号2014年3月)。
- ^ 倭武の天皇とは日本武尊のこととされている。
出典
- ^ 山路直充『「衣河の尻」と「香取の海」』(『古代交通研究第』13号、 2004年)
- ^ 昔、千葉県は島だった!? 海岸線の変化と香取海【千葉地理学会連載 おもしろ半島ちばの地理再発見】『千葉日報』(2017年1月17日)
- ^ a b 岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』(教育出版、1999年) ISBN 978-4316357508
- ^ 青山宏夫「干拓以前の潟湖とその機能 : 椿海と下総の水上交通試論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第118巻、国立歴史民俗博物館、2004年2月、193-217頁、doi:10.15024/00001288、ISSN 0286-7400、NAID 120005748477。
- ^ a b 植垣節也 『風土記(新編日本古典文学全集5)』 ISBN 978-4096580059
- ^ a b 谷川健一 『日本の神々-神社と聖地- 11 関東』 ISBN 978-4560025116
- ^ 吉田東伍『大日本地名辞書 第6巻 坂東』、1061頁「榎浦」
- ^ a b 鈴木哲雄『中世関東の内海世界』(岩田書院、2005年) ISBN 978-4872944082
- ^ 文中3年(1374年)の「海夫注文」
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