龍角寺との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 23:26 UTC 版)
「浅間山古墳 (栄町)」の記事における「龍角寺との関係」の解説
浅間山古墳の造営後、龍角寺古墳群では日本最大級の方墳である岩屋古墳が造営された。そして古墳北方に7世紀半ばから後半にかけて龍角寺が造営される。浅間山古墳と岩屋古墳を造営した印旛沼周辺を支配していた首長、印波国造が龍角寺を造営したものと考えられている。 龍角寺古墳群を築造した首長は、6世紀末以降、それまで地域で主導的な役割を果たしていたものと考えられる公津原古墳群を造営した首長に替わって、浅間山古墳や岩屋古墳という地域を代表する大型古墳を造営するようになった。龍角寺古墳群を築造したと考えられる印波国造は、下総から常陸、そして東北方面へと向かう交通の要衝であった香取海の水運の拠点を押さえることによって勢力を強めたものと考えられている。浅間山古墳以降の龍角寺古墳群の古墳が印旛沼方面よりも、北東方向の香取海を意識した立地であることはそうした事実の表れと解釈されている。 また龍角寺が造営されたのとほぼ同時期に、香取神宮と鹿島神宮の社殿が造営されたとの見方もあり、これもやはり香取海を通して常陸、そして東北方面へ向かうルートをヤマト王権が重要視していたことの表れと見られている。龍角寺古墳群を造った印波国造と考えられる首長は、ヤマト王権が重要視する交通路を押さえることにより王権との結びつきを強め、浅間山古墳に示されるようにその力を強めたとされる。 また、龍角寺古墳群の近くには埴生郡衙跡とされる大畑遺跡群がある。これは6世紀の古墳時代後期以降、龍角寺古墳群を造った首長は、7世紀後半の龍角寺建立、そして律令制が成立した後も郡司となってその勢力を保ったことを示唆しており、龍角寺古墳群の画期である浅間山古墳の持つ意味は大きいと言える。
※この「龍角寺との関係」の解説は、「浅間山古墳 (栄町)」の解説の一部です。
「龍角寺との関係」を含む「浅間山古墳 (栄町)」の記事については、「浅間山古墳 (栄町)」の概要を参照ください。
- 龍角寺との関係のページへのリンク