古墳群の誕生
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龍角寺古墳群はまだ多くの古墳が未発掘であるため、明らかになっていない点も多いが、古墳時代前期や中期の古墳はないとされ、古墳群の誕生は6世紀、古墳時代後期のことと考えられている。発掘された中で最も古いとされる古墳は101号墳で、検出された埴輪の内容などから6世紀第二四半期の造営と考えられている。6世紀台、龍角寺古墳群では全長20-30メートルの前方後円墳や、直径10-20メートルの円墳を中心とした小型の古墳が多数造営されており、勢力的に拮抗した複数の首長が同時に古墳を造営していたと考えられている。 6世紀前半代、印旛沼周辺では龍角寺古墳群の南方にある公津原古墳群が最も優勢で、船塚古墳など地域を代表するような大きさの古墳が造営されていた。しかし6世紀後半台になると公津原古墳群では目立った大きさの古墳が造営されないようになり、まず印旛沼東岸にある北須賀勝福寺古墳群、それから龍角寺古墳群の存在感が増していく。 現在のところ龍角寺古墳群に属する古墳の中で、16基の古墳から埴輪が検出されている。検出された多くの埴輪が下総型埴輪という6世紀後半期、下総を中心に使用されていたことが確認される特徴的な埴輪であり、龍角寺古墳群の多くの古墳がこの時期に造営されたと考えられている。また下総型埴輪の分布の中心は印旛沼周辺と考えられており、下総型埴輪の成立と分布の拡大は、6世紀後半に古墳築造が盛んになり、やがて浅間山古墳、岩屋古墳という地域最大の古墳を造ることになる龍角寺古墳群を造営した首長の勢力の増大を示しているとの説もある。 そして龍角寺古墳群でよく見られる、円墳に小規模な前方部がついた帆立貝型古墳のような形をした全長20-30メートルの前方後円墳は、6世紀後半、香取海沿岸を中心とした下総や常陸で数多く造られたため、常総型古墳と呼ばれている。常総型古墳は墳丘と規模以外にも墳丘の裾に箱型の石棺を埋葬施設としているといった共通点が見られ、形式がやや異なるものの下野にも分布が広がっており、やはり龍角寺古墳群の被葬者を始めとした常総地域の首長の勢力の増大を示していると考えられる。 また、浅間山古墳の石室や石棺で用いられた筑波山周辺で採掘される片岩の利用が、24号墳、53号墳など浅間山古墳以前に築造されたと考えられる古墳からも確認されている。片岩は香取海の水運を通じて筑波山付近からもたらされたものと考えられ、龍角寺古墳群を造営した首長が、広域の首長との関係を持っていたことがわかる。
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古墳群の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:47 UTC 版)
小櫃川流域では、古墳時代前期の4世紀より古墳の造営が確認できる。4世紀、小櫃川中流域に飯籠塚古墳など、墳丘長100メートル前後の前方後円墳の造営が見られ、そして同じ時期、小櫃川の河口付近でも墳丘長60メートルクラスの前方後円墳の築造がなされたと考えられている。4世紀、100メートル台の前方後円墳は房総半島では最大級の大きさであり、小櫃川流域の首長は早い時期から強い勢力を持っていたと考えられる。 祇園・長須賀古墳群で最初に造営がされた古墳は、高柳銚子塚古墳と考えられている。海岸から数えて2列目の砂丘跡にあたる微高地上にある高柳銚子塚古墳は、墳丘長推定130-150メートルになる前方後円墳で、5世紀の第二四半期頃に築造されたと考えられている。当時の上総では、隣接する内裏塚古墳群の内裏塚古墳と並ぶ大型古墳である。高柳銚子塚古墳の造営は、下流域の祇園・長須賀古墳群の首長がこれまで優位であった小櫃川中流域の首長を抑えたか、もしくは小櫃川中流域から下流域に本拠地を移転したことを示すと考えられており、いずれにしても祇園・長須賀古墳群を造営した小櫃川下流域の首長は、古墳の規模から見ても房総半島内でも有力な首長であったことがわかる。 高柳銚子塚古墳に続いて、4列目の砂丘跡に隣接する丘陵地に推定墳長100メートルの前方後円墳、祇園大塚山古墳が5世紀の第三四半期頃築造された。祇園大塚山古墳は1891年に発掘されており、金銅製の甲冑や銀製の耳飾、画文帯四仏四獣鏡などといった副葬品が出土した。
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