勝福寺古墳とは? わかりやすく解説

勝福寺古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 21:07 UTC 版)

勝福寺古墳

墳丘遠景
(階段上に後円部、右奥に前方部)
所在地 兵庫県川西市火打2丁目393
位置 北緯34度50分16.22秒 東経135度24分51.22秒 / 北緯34.8378389度 東経135.4142278度 / 34.8378389; 135.4142278座標: 北緯34度50分16.22秒 東経135度24分51.22秒 / 北緯34.8378389度 東経135.4142278度 / 34.8378389; 135.4142278
形状 前方後円墳
規模 墳丘長40m
埋葬施設 後円部:横穴式石室2基
前方部:木棺直葬2基
出土品 画文帯神獣鏡・六鈴鏡・銀象嵌竜文刀など副葬品多数・須恵器土師器埴輪
築造時期 6世紀初頭
史跡 兵庫県指定史跡「勝福寺古墳」
有形文化財 出土品(兵庫県指定文化財)
地図
勝福寺古墳
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勝福寺古墳(しょうふくじこふん)は、兵庫県川西市火打にある古墳。形状は前方後円墳。兵庫県指定史跡に指定され、出土品は兵庫県指定有形文化財に指定されている。

概要

墳丘
右に後円部、左奥に前方部。

兵庫県東部の長尾山丘陵東端、勝福寺の裏山斜面に築造された古墳である。1891年明治24年)に発見され多数の副葬品が出土しているほか、1971年昭和46年)以降に発掘調査が実施されている。

墳形は前方後円形で(調査前は円墳2基(勝福寺南墳・勝福寺北墳)とされた)、前方部を南南東方向に向ける。墳丘外表では円筒埴輪形象埴輪(家形・甲冑形埴輪)が検出されている。埋葬施設は後円部における右片袖式横穴式石室(第1石室)・小横穴式石室(第2石室)の2基、前方部における木棺直葬2基(北棺・南棺)の計4基である。第1石室が中心的埋葬とされ、横穴式石室としては初期段階になるとして注目される。第1石室内からは画文帯神獣鏡・六鈴鏡・銀象嵌竜文刀・馬具など優れた副葬品が出土しており、第2石室・北棺・南棺からも副葬品が出土している。

築造時期は、古墳時代後期の6世紀初頭頃と推定される[1]。小規模古墳ながら前方後円墳である点、初期横穴式石室を採用する点、優れた副葬品を有する点で特筆され、川西南部地域を掌握した首長墓として位置づけられる[1]。被葬者に関しては、継体天皇(第26代)に関連する人物とする説が挙げられる[1]

古墳域は2014年平成26年)に兵庫県指定史跡に指定され、出土品は同年に兵庫県指定有形文化財に指定された。現在では第2石室は埋め戻され、第1石室も石室内への立ち入りは制限されている。

遺跡歴

  • 1891年明治24年)、採土に際して発見。第1石室が開口、副葬品多数出土[1]
  • 1933年昭和8年)、前方部北棺の発見[2]
  • 1968年(昭和43年)11月21日、川西市指定史跡に指定。
  • 1971年(昭和46年)、発掘調査。前方部南棺の発見(川西市教育委員会)[1]
  • 2000年平成12年)、測量調査(大阪大学考古学研究室、2001年に報告書刊行)。
  • 2001-2004年(平成13-16年)、発掘調査。前方後円墳と判明、第2石室の発見(大阪大学考古学研究室・川西市教育委員会、2004年に概報刊行、2006年に報告書刊行)[1]
  • 2011年度(平成23年度)、墳丘復元工事[1]
  • 2014年(平成26年)3月14日、兵庫県指定史跡に指定、出土品が兵庫県指定有形文化財に指定。

埋葬施設

第1石室俯瞰図
第1石室展開図

埋葬施設としては後円部において横穴式石室2基(第1石室・第2石室)が、前方部において木棺直葬2基(北棺・南棺)が構築されている。石室・木棺の規模は次の通り[1]

第1石室
  • 石室全長:9.02メートル
  • 玄室:長さ4.71メートル、幅2.3メートル、高さ2.43メートル
  • 羨道:長さ4.31メートル、幅1.43メートル、高さ1.69メートル
第2石室
  • 長さ2.5メートル以上、幅1.4メートル、高さ0.6メートル以上
前方部北棺
  • 長さ・幅不明
前方部南棺
  • 長さ約2.7メートル、幅約0.6メートル

第1石室は、1891年(明治24年)に発見された。右片袖式横穴式石室で、北北西方向に開口する。初期の横穴式石室であり、画文帯神獣鏡・六鈴鏡・銀象嵌竜文刀の出土から中心的埋葬施設とされる[1]

第2石室は、2004年(平成16年)の発掘調査で発見された。第1石室の入口前に構築された小型の石室で、西南西方向に開口した。天井石のほか石材の多くは失われているが、石室内からは須恵器群が検出されている。第1石室の被葬者の子孫と推測される。現在では埋め戻されている[1]

前方部北棺は、1933年(昭和8年)に発見された。木棺直葬で、五獣形鏡・鹿角製刀装具の刀片が出土したと伝える[1]

前方部南棺は、1971年(昭和46年)の発掘調査で発見された。木棺直葬で、金製耳環・銀製梔子玉・鉄刀・鉄鏃が検出されている[1]

文化財

兵庫県指定文化財

  • 有形文化財
    • 勝福寺古墳出土品 318点(考古資料) - 勝福寺は勝福寺・川西市。川西市文化財資料館保管。2014年(平成26年)3月14日指定。
  • 史跡
    • 勝福寺古墳 - 所有者は勝福寺・川西市。2014年(平成26年)3月14日指定。

関連施設

  • 川西市文化財資料館(川西市南花屋敷) - 勝福寺古墳の出土品を保管・展示。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 勝福寺古墳パンフレット。
  2. ^ 勝福寺古墳(平凡社) 1999.

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板(川西市教育委員会、2012年設置)
  • 勝福寺古墳パンフレット(川西市教育委員会社会教育室、2012年)
  • 「勝福寺古墳」『日本歴史地名大系 29 兵庫県の地名』平凡社、1999年。 

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 勝福寺古墳測量調査報告書』大阪大学大学院文学研究科考古学研究室、2001年。  - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
  • 勝福寺古墳発掘調査概報』大阪大学大学院文学研究科考古学研究室、2004年。  - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
  • 『川西市勝福寺古墳発掘調査報告』川西市教育委員会、2006年。 
  • 『勝福寺古墳の研究(大阪大学文学研究科考古学研究報告)』大阪大学勝福寺古墳発掘調査団、2007年。 

関連項目

外部リンク


勝福寺古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 21:51 UTC 版)

勝福寺 (川西市)」の記事における「勝福寺古墳」の解説

明治24年1891年)、壁土用の土を取っていた時に偶然、横穴式石室が見つかり、中国製の鏡や管玉大刀出土し1934年によって現地調査が行われる。古墳全長約40mの前方後円墳6世紀前葉造られたもので、後円部に2基の横穴式石室前方部木棺直送墓を設けてある。古墳出土品318点)が平成26年2014年3月14日兵庫県史跡名勝天然記念物兵庫県指定重要有形文化財指定される

※この「勝福寺古墳」の解説は、「勝福寺 (川西市)」の解説の一部です。
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