長尾山古墳の特徴
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長尾山古墳の特徴としてまず挙げられるのが、猪名川流域で最も古い時代に築造された古墳であると考えられることである。猪名川流域には長尾山古墳と同じ長尾山丘陵に万籟山古墳、猪名川東岸の五月山丘陵に池田茶臼山古墳、同じく猪名川東岸の豊中台地に大石塚古墳、小石塚古墳などといった前期古墳が知られている。長尾山古墳の築造年代を示す史料は埴輪しかなく、埋葬施設の副葬品の内容で年代を推定することは不可能である。ただ、埋葬施設が粘土槨であるということは、一般的に粘土槨は竪穴式石室から派生したと考えられていることから、竪穴式石室を備えた万籟山古墳、池田茶臼山古墳などとの築造時期の前後関係について慎重に検討する必要がある。 長尾山古墳の埋葬施設の粘土槨は、出現期古墳の中でも古い古墳として知られる神戸市の西求女塚古墳の埋葬施設との類似性が高く、このことから埋葬施設が粘土槨であるからといって、長尾山古墳が万籟山古墳、池田茶臼山古墳よりも後出すると判断することは困難で、むしろ出土した埴輪の形態や、埴輪の形態的に長尾山古墳とともに古いと考えられる池田茶臼山古墳が、副葬品に新しい要素が見られることから、長尾山古墳が猪名川流域で最も古い時代に築造された可能性が高いと考えられている。 長尾山古墳は墳丘の全長41メートルと小規模な前方後円墳でありながら、全国的に見ても十指に入る規模の粘土槨を埋葬施設とし、整った排水設備を持ち、そして初期のヤマト王権中枢部で築造された古墳と共通する、二段築成、葺石、埴輪を備えた典型的な古墳であると評価することができる。このことは4世紀初頭、猪名川流域で最初の首長墓である長尾山古墳の被葬者は、初期ヤマト王権中枢部の埋葬儀礼を取り入れていたことを示すものであり、ヤマト王権と猪名川流域の首長との連携が4世紀初頭の段階で成立していたと考えられる。 猪名川流域で初期ヤマト王権といち早く関係を結んだ長尾山古墳の被葬者の後、古墳時代前期には同じ長尾山丘陵上に万籟山古墳、そして五月山丘陵、待兼山丘陵、そして豊中台地に古墳が築造された。しかし古墳時代中期に入ると、猪名川流域の各地で築造されてきた古墳のうち、丘陵地帯では築造が止まり、猪名川中流域の豊中台地の桜塚古墳群や伊丹市南部から尼崎市にかけての伊丹台地の猪名野古墳群で盛んに古墳が造営されるようになる。ところが6世紀に入ると今度は桜塚古墳群と猪名野古墳群が急速に衰退し、再び長尾山丘陵上に勝福寺古墳が築造されるなど丘陵地帯での古墳築造が復活する。猪名川流域の小地域ごとの古墳の消長は、直接的には地域首長権の移動を示していると考えられるが、ヤマト王権の大王墓が奈良盆地から河内へ、そして河内から今城塚古墳が築造された淀川水系へと移動する時期と、猪名川流域内の小地域における古墳の消長の時期とが良い一致を示していることから、地域首長権の移動の背景には、ヤマト王権中枢部の権力交替が密接に関わっているのではないかとの仮説も提唱されている。 2010年(平成22年)2月24日、長尾山古墳は宝塚市の史跡に指定された。
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