古墳周辺の開発の進行と長尾山古墳の調査開始
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「長尾山古墳」の記事における「古墳周辺の開発の進行と長尾山古墳の調査開始」の解説
昭和40年代、長尾山古墳がある阪急宝塚線山本駅北側の丘陵地帯の宅地開発が計画された。その後、昭和60年代に入ると住宅地建設が本格化し、開発に先立って一部の古墳時代後期の群集墳について発掘調査が実施されることになった。一方、長尾山古墳については地域の代表的な古墳であるという重要性を考慮し、1992年(平成4年)、古墳が位置する尾根一帯を都市公園として整備することによって現状保存が図られることになった。そして1990年代後半に一時鈍化した長尾山丘陵の宅地開発であったが、2000年代に入ると再び活発化してきた。その結果、公園化された長尾山古墳周辺を散策する市民が増加し、古墳の調査、保護、そして貴重な文化財として市民に広く周知していくことが課題となった。 ところで大阪大学考古学研究室では、ある特定地域の首長墳について詳細に分析することによって、古墳時代の中央と地方との関係性とその変遷や、当時の政権の勢力交替について考察し、古墳時代の政治史や国家形成過程を解明していくことを目的とした研究が進められていた。その中で2000年(平成12年)から猪名川流域の古墳時代史の調査研究が開始された。大阪大学考古学研究室は最初の調査ターゲットとして長尾山丘陵にある川西市の勝福寺古墳を選び、2000年から2004年(平成16年)にかけて測量、発掘調査を実施した。前述のように長尾山丘陵には古墳時代前期築造の万籟山古墳から終末期の国史跡である中山荘園古墳に至るまで、多くの古墳が造営されている。そのため古墳を通じて長期に渡る地域首長の動向について考察できる格好の場所であると判断されたのである。そして勝福寺古墳に続く調査ターゲットとして長尾山古墳の名が挙げられることになった。 長尾山古墳が調査対象に選ばれた理由は主にその実態が未解明であったことによる。前述のように石野博信率いる関西学院大学考古学研究会の発見時や宝塚市教育委員会と夙川学院短期大学日本歴史研究会による測量調査時は前期の古墳ではないかとの説が出されたのに対し、1992年(平成4年)の前方後円墳集成の中では前期終わり頃とされ、また宝塚市史の中では中期初頭築造と紹介されており、築造時期がはっきりしていなかった。前述のように長尾山丘陵では古墳時代中期築造の古墳は知られておらず、長尾山古墳が古墳時代中期築造であるかどうかについて、古墳時代の猪名川流域の首長についての考察を進めていくに当たって解明が必要とされた。また長尾山古墳は宝塚市教育委員会と夙川学院短期大学日本歴史研究会による測量調査の結果、前方後方墳であるとされたが、その結論も確定的なものとは言えないものであり、古墳の実態を解明することが猪名川流域の古墳時代史の調査研究の中で不可欠であると判断された。 2006年(平成18年)9月、大阪大学考古学研究室の福永伸哉が長尾山古墳の現地視察を行い、墳丘部に石列、埴輪の破片が確認されたため、まず石列、埴輪の破片が確認された箇所を中心とした墳丘の裾部分のトレンチ調査の実施が検討された。調査計画は地元宝塚市教育委員会との協議を行いながら固められていき、2007年(平成19年)度に大阪大学考古学研究室が主体となって長尾山古墳の測量調査、および発掘調査の実施が決定された。
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