古墳時代のヒスイ
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古墳時代においては、大部分のヒスイが勾玉に加工されている。また勾玉の他に弥生時代には見られなかったヒスイ製の棗玉が古墳に副葬されるようになった。ヒスイの勾玉は他の石で作られた勾玉より遥かに貴重とみなされ、首飾りの中心だったとの推定がある。首飾りについては、弥生時代の風潮を受け継いだものと考えられている。弥生時代、北部九州で誕生したヒスイ製丁字頭勾玉は古墳時代前期、関東地方までその分布を広げたが、弥生時代と異なり出土の中心は北部九州から畿内へと移った。 藤田亮策は『古代』第25・26号(1957年)に発表した論考「硬玉問題の再検討」で、縄文時代はともかくとして古墳時代にみられるヒスイは日本産以外のものではないか、という疑問を抱いた。藤田がその理由として挙げたのは、おおよそ次の4点である。 原産地である糸魚川地方には、古墳時代のヒスイ玉作遺跡が未発見である。 古墳時代のヒスイ製勾玉は、近畿地方およびそれより西に多くみられ、朝鮮半島南部でも多数発見されている。 玉作部(たまつくりべ)などにヒスイは伝わっておらず、伝承も見つからない。 原石だけの移出であれば問題は別になるが、古代の糸魚川地方が文化史的に恵まれていたという証拠が何ら見当たらない。 藤田がこの疑問を抱いた時期は、糸魚川市の長者ヶ原遺跡が縄文時代のヒスイ玉作遺跡であることが明らかになった後だった。しかし、弥生時代から古墳時代のヒスイ玉作遺跡がほとんど知られておらず、完全な工房の発掘例も存在しなかった。考古学界では、この2つの時代(特に古墳時代)のヒスイ玉作遺跡を探求し続けていた。 藤田の疑問と古墳時代の玉作遺跡については、1966年から1967年に解決をみた。1966年10月、糸魚川地方にほど近い浜山遺跡(富山県下新川郡朝日町)が発見され、調査の結果、勾玉などの玉類39点、ヒスイ、滑石などの完成品や未成品、さらに原石が数多く発掘された。寺村によると、当時古墳時代のヒスイ玉作遺跡は先に述べた大角地遺跡(新潟県糸魚川市)くらいしか知られていなかった。翌年4月18日から始まった本格的な調査によって、ほぼ完全なヒスイ工房跡が1軒分と、ヒスイ製勾玉と未成品など、玉を磨く砥石やヒスイを割るハンマーとしての敲石、そして一部が欠損しているものの、ヒスイの孔あけ加工に使われたと推定される錐上の出土物(直径4.1ミリメートル、現帖.3センチメートル)、鏨の破片かと思われる鉄器(幅4センチメートル、厚さ5ミリメートルくらい)が見つかっている。浜山遺跡は古墳時代中期(5世紀ごろ)のもので、ヒスイ工房の完全な発掘例として日本初のものであった。前述のように糸魚川周辺のヒスイ玉製作遺跡は弥生時代中期にいったん消滅するが、弥生時代後期には復活し、古墳時代後期前半までヒスイの他、碧玉、滑石製の玉作りが続けられた。 なお、古墳へのヒスイ玉の副葬は古墳時代終末期まで確認されているものの、ヒスイ玉製作遺跡に関しては古墳時代後期中ごろの6世紀前半以降確認されなくなる。6世紀前半に衰退したのはヒスイ玉ばかりではなかった。関東地方や畿内で行われていた玉類製造も6世紀前半には衰退した。6世紀代に玉類を製造し続けたのは事実上出雲に限られる。その出雲の玉作りも7世紀後半には終焉する。
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