古墳時代の大隅半島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 00:03 UTC 版)
10号墳における一連の調査では、古墳本来の規模などの基礎的な情報のほか、伊予地域から搬入された初期須恵器の存在や埴輪の樹立、九州中部地域の技術を取り入れた船形石棺の存在など、同古墳の被葬者が広域の地域間交流を背景に技術・情報を掌握し、取り入れていた強力な首長であったことを示す成果が得られている。 大隅半島の志布志湾岸・肝属平野部では、神領古墳群のほか、岡崎古墳群や塚崎古墳群・唐仁古墳群・横瀬古墳などの古墳時代前期〜中期の古墳が多く分布するものの、鹿児島県下の古墳時代像は、かつて「熊襲・隼人の地」などと言われた歴史観も重なり、弥生時代以降の文化的な発展が停滞し、他地域から「隔絶」「孤立」した地域と見なされがちであったが、神領古墳群の調査成果は、当地域が畿内や瀬戸内、さらに南島などとも積極的に交流していたことを示し、九州南部の古墳時代像に再考を迫るものとなっている。
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