古墳時代から的屋御厨まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 09:05 UTC 版)
「磯部町的矢」の記事における「古墳時代から的屋御厨まで」の解説
的矢では鍋田古墳群や船戸古墳群などが見つかっており、古くから勢力を持った人々がこの地にいたことが窺える。特に鍋田古墳群は19基あり、「朝日さす夕日かがやくえせびの下に埋めてあるぞえ小判千両」という伝承があり、勾玉や須恵器などが出土している 南北朝時代の書物『神鳳鈔』に「的屋御厨」として掲載されているのが史料での初見である。『氏経引付』では寛正3年10月17日(ユリウス暦1462年11月4日)に内宮政所大夫氏秀が「的屋城殿」に宛てて書状を送っており、当地に城を構える者がいたことが分かる。城主は的屋氏と呼ばれていたようで、代々伊雑浦惣検校の職に就き、伊勢神宮別宮の伊雑宮や磯部の地を治める地位にあった。しかし、戦国時代の享禄4年(1531年)に九鬼氏の奇襲を受けて的屋氏は滅ぼされた。『志摩海賊記』の中で吉田正幸は的屋氏について「悲運の名族」と評している。
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