中山荘園古墳とは? わかりやすく解説

中山荘園古墳

名称: 中山荘園古墳
ふりがな なかやましそうえんこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 兵庫県
市区町村 宝塚市中山荘園
管理団体
指定年月日 1999.01.28(平成11.01.28)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 中山荘園古墳は,7世紀中頃築造されたと推定されるいわゆる終末期古墳」である。宝塚市北方の長唇山丘陵の南斜面所在し当時天皇陵共通する八角形墳丘をもち,切石ではないが横口式石に近い形態規模石室有している。昭和57年マンション建設にともない発見され宝塚市教育委員会による昭和5859年発掘調査結果八角填であることが判明した発掘調査により八角形墳丘全容が明確となった最初事例であり,事業計画変更し事業地内にあたる墳丘半分について保存を図ることができた。しかし,土地所有者異なる西半分については,宝塚市買収要望対す同意がえられず,発見から15年経過したが,今回所有者理解がえられ, 一体としての保護活用可能になったものである
古墳丘陵裾部から18mほど上がった中腹立地し両側に緩い稜線が入るわずかな谷地形を謹んでいる。墳丘石室主軸稜角をおくように八角形割り付けているが,石室開口部側の二辺分については,方形壇としている。墳丘規模は,八角対角長で約13mである。墳丘裾部には,原則として各辺2列の列石がめぐる。墳裾の基底部北から南にかなり傾斜しており,墳丘背面北側前面方形壇裾では約4m高低差がある。
ほぼ真南開口する横穴式石室は,長さ3.5mで嘩・高さとも1.3mの女室に,長さ1.2mで幅0.7mの羨道取り付けたのである羨道南端開口部分から東西両側にのびる外護列石認められる。奥壁は1牧石でやや内債するように立て側壁は4~5段に積み上げている。 天井石玄室部分の3石が残る。石材切石ではなく花崗岩及び結晶質凝灰岩自然石である。床面には石敷があり,長さ2.3mで幅1.Om範囲赤色顔料認められ木棺痕跡考えられる出土遺物はわずかで,須恵器土師器片と釘1本のみである。
6世紀末から7世紀初頭前方後円墳築造されなくなり首長層の墳墓はかなり数が少なくなるが,天皇陵をはじめ,その多く方墳であった。ところが、7世紀中頃舒明陵を最初として、天皇陵八角墳になると考えられている。確実な八角墳天皇陵としては,ほかに天智陵と天武持統合葬陵があり,また斉明陵との説がある牽牛子塚古墳文武陵との説がある中尾山古墳も,部分的な調査により八角填であると推定されている。各地築かれ数少ない首長墳の多く方墳であるなかで,天皇陵と同じ八角形を示すものはきわめて少ない。その被葬者像具体的に明らかにすることは困難であるが,7世紀代に首長墳を築いた被葬者層の中でも,さらに特別な存在であったことが予想される。中山荘園古墳は,天皇陵以外の数少ない八角墳なかでも全体像が明確で達存状況良好であり,飛鳥時代墓制考え上で欠くことのできない存在である。よって,史跡指定し保存図ろうとするものである
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中山荘園古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/21 21:37 UTC 版)

中山荘園古墳

墳丘・石室開口部
所在地 兵庫県宝塚市中山荘園12-298ほか
位置 北緯34度49分12.38秒 東経135度21分47.43秒 / 北緯34.8201056度 東経135.3631750度 / 34.8201056; 135.3631750座標: 北緯34度49分12.38秒 東経135度21分47.43秒 / 北緯34.8201056度 東経135.3631750度 / 34.8201056; 135.3631750
形状 八角墳
規模 対角長13m
高さ2.6m
埋葬施設 横穴式石室
出土品 鉄釘・須恵器土師器
築造時期 7世紀中葉
史跡 国の史跡「中山荘園古墳」
地図
中山荘園
古墳
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中山荘園古墳(なかやまそうえんこふん)は、兵庫県宝塚市中山荘園にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定されている。

概要

墳丘から西摂平野を望む

兵庫県東部、長尾山丘陵西部の丘陵から南に延びる尾根の先端部に築造された古墳である[1]1982年昭和57年)に古墳として発見され、1983-1984年(昭和58-59年)に発掘調査が実施されている[1]

墳形は八角形で、対角長は約13メートル・高さ約2.6メートルを測る[2][3]。墳丘周囲には八角形の外護列石が各辺2列巡らされるほか、墳丘南側の前庭部には祭壇とみられるテラス状施設が構築されている[2]。埋葬施設は小型の横穴式石室で、南方向に開口する[2]。石室内で副葬品は検出されていない。

築造時期は、古墳時代終末期7世紀中葉頃と推定される[2]。八角墳は段ノ塚古墳奈良県桜井市舒明天皇陵)・御廟野古墳京都府京都市天智天皇陵)・野口王墓古墳(奈良県明日香村天武持統天皇合葬陵)など当時の天皇陵クラスの古墳で採用されているが、各地の地方豪族クラスの古墳では主に方墳が採用されており、当地の豪族の特異性を示す古墳である[4][2]。被葬者は明らかでないが、付近の売布神社延喜式内社)の奉斎氏族として物部氏一族の若湯坐氏が知られており、関連性が指摘される[2]

古墳域は1999年平成11年)に国の史跡に指定されている[4]。現在では史跡整備のうえで公開されている。

遺跡歴

  • 1982年昭和57年)、古墳として発見[1]
  • 1983-1984年(昭和58-59年)、発掘調査(宝塚市教育委員会、1985年に概要報告・本報告)[1]
  • 1984年(昭和59年)、兵庫県指定史跡に指定[5]
  • 1999年平成11年)1月28日、国の史跡に指定[4]
  • 2006年(平成18年)、史跡整備終了に伴う一般公開。

埋葬施設

石室俯瞰図
石室展開図

埋葬施設としては横穴式石室が構築されており、南方向に開口する[2]。玄室と羨道が連続せず、羨道の一部が玄室に入り込む特異な構造である[1][2]。石室の玄室の規模は、長さ3.4メートル・幅約1.3メートル・高さ1.3メートルを測る[1][2]。石材は凝灰岩[2]、奥壁は1石、側壁は割石積み[1]。天井石は3枚[1]。床面には小石を敷きつめる[2]。石室の中央部に朱が残存することから(木棺の痕跡か[4])、単体埋葬と推定される[2]

発掘調査において石室内から副葬品は検出されておらず(早い段階で盗掘か)[3]、わずかに鉄釘1本・須恵器片・土師器片のみが認められている[4]

文化財

国の史跡

  • 中山荘園古墳 - 1999年(平成11年)1月28日指定[4]

現地情報

所在地

交通アクセス

周辺

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 兵庫県の地名 1999.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 史跡説明板。
  3. ^ a b 国指定史跡 中山荘園古墳(宝塚市ホームページ)。
  4. ^ a b c d e f 中山荘園古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  5. ^ 日本古墳大辞典 1989.
  6. ^ 国指定史跡ガイド.

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『中山荘園古墳 -発掘調査概報-』宝塚市教育委員会、1985年。 
  • 『中山荘園古墳 -発掘調査報告書-』宝塚市教育委員会〈宝塚市文化財調査報告第19集〉、1985年。 
  • 『国指定史跡中山荘園古墳 -保存整備事業報告書-』宝塚市教育委員会〈宝塚市文化財調査報告第35集〉、2007年。 

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