古墳群の概要
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龍角寺古墳群は、現在のところ114基の古墳が確認されている。古墳群の中には、龍角寺参道沿いに中世から近世にかけて造られたと考えられている塚が数多くあり、見かけ上古墳との区別が難しいため、数については不確定な要素が残っている。 龍角寺古墳群は前方後円墳が37基、方墳が6基、円墳71基で構成されている。しかし確認されている前方後円墳の多くが、円墳に短小な方形部が付く帆立貝形古墳に類似したもので、現在円墳とされている古墳の中からも、今後発掘調査などが進めば前方後円墳が増える可能性がある。また築造当時は方墳であった古墳の一部も、墳丘の改変などで今は円墳のようになっているものもあると考えられ、方墳の数も増える可能性がある。 龍角寺古墳群は所属する古墳の一部しか調査発掘されておらず、まだ明らかになっていない点が多いが、古墳時代前・中期に築造された古墳は見当たらず、6世紀以降の古墳時代後期にその築造が開始されたと考えられている。現在のところ龍角寺古墳群の中で最も古い時期に築造されたと考えられている古墳は帆立貝形古墳である101号墳で、検出された埴輪の形式などから6世紀第二四半期に築造されたと見られている。その後7世紀にかけて龍角寺古墳群では古墳の造営が続いた。 古墳群を構成する古墳の多くは小型で、前方後円墳では全長20-30メートル、円墳では直径10-20メートルのものが多い。龍角寺古墳群では当初、小型の前方後円墳や円墳が造られていたと考えられるが、7世紀前半以降、浅間山古墳と、日本第二位の規模を誇る方墳である岩屋古墳という印旛沼周辺地域で最も大きい古墳が造営された。これは印旛沼周辺地域の地域の主導権が、公津原古墳群を造営した首長から龍角寺古墳群を造営した首長へと移ったことにより、浅間山古墳、岩屋古墳と地域を代表する大きさの古墳が龍角寺古墳群内に造営されるようになったとされる。また龍角寺古墳群は複数の首長が同一の墓域を利用していたものと考えられており、浅間山古墳や岩屋古墳のような地域を代表する首長を葬った盟主墳にあたる古墳と、その下に位置する首長墳が同一時期に築造されていたものと見られている。 浅間山古墳は7世紀初頭に築造されたとの説と7世紀第二四半期に造られたとの説があり、論争になっている。いずれにしても浅間山古墳は前方後円墳の中でも最後の時期に造営された古墳のひとつと考えられている。龍角寺古墳群では浅間山古墳の造営後は、岩屋古墳、みそ岩屋古墳など方墳が造営されるようになった。 7世紀後半、龍角寺古墳群の北方に龍角寺が造営される。また古墳群の北東には埴生郡衙跡と考えられている大畑遺跡群がある。これは6世紀の古墳時代後期以降、龍角寺古墳群を造った首長は、7世紀後半には龍角寺を建立し、そして律令制が成立した後も郡司となってその勢力を保ったことを示唆している。 龍角寺古墳群を造営した首長は、かねてから国造本紀の記述などから印波国造と考えられており、最近の研究では大生部直氏ではないかと見られている。龍角寺古墳群は住宅地の造成や道路建設によって消滅した古墳もあるが、古墳群に属する古墳の多くが房総のむら内にあって比較的良好な状態で保存されており、古墳時代後期から終末期古墳にかけての古墳の造営状況を知ることが出来る上に、地方首長による寺の造営、そして律令制の時代には郡司となっていくまでの経過を見ることができる貴重な遺跡として評価されている。1941年に岩屋古墳が単独の古墳として国の史跡に指定された。2009年2月12日には龍角寺古墳群に所属する古墳のうち浅間山古墳など92基が追加指定され、史跡の指定名称が「龍角寺古墳群・岩屋古墳」に変更された。
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古墳群の概要
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祇園・長須賀古墳群は木更津市の小櫃川下流域の沖積平野上にある、かつて砂丘であった微高地上を中心に築造された。小櫃川下流域には南北方向に4列の砂丘跡が確認されており、海岸から数えて2列目、3列目、4列目の砂丘跡に古墳が造営された。また4列目の砂丘跡が丘陵部に接続する付近や、太田山公園がある丘陵地帯にも古墳が確認されている。古墳群は5世紀半ばから7世紀にかけて造られ、小櫃川流域の首長であった馬来田国造が造営したものと考えられている。 木更津市街地が広がる平野部に築造された祇園・長須賀古墳群は、低湿地の埋め立て用に墳丘が削られ、さらに木更津市の都市化が古墳の消滅に拍車をかける結果となり、現在では消滅してしまった古墳も多い。そして金鈴塚古墳など、一部が残っている古墳もほぼ原型をとどめないほど改変を受けてしまっている。そのため現在、古墳群の全貌を知るのは困難である。
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古墳群の概要
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玄界灘に臨む丘陵と台地上、おおむね南北8キロ、東西2キロの範囲に、5世紀から7世紀にかけて築造された多数の古墳がある。宗像三女神を祀っていた古代の豪族・胸形氏一族の墓に比定されている。古墳の規模・集中度ともに北部九州最大級のものである。すでに消滅した古墳もあり、宗像市の報告書によれば、現存する古墳は60基(前方後円墳16、円墳43、方墳1)、うち54基が史跡に指定され、円墳6基が未指定である。古墳(群)の名称は、北から南へ位置順に列挙すると以下のとおりである。 勝浦高原(かつうらたかはら)古墳群 勝浦井ノ浦古墳 勝浦峯ノ畑古墳 新原・奴山(しんばる・ぬやま)古墳群 生家大塚(ゆくえおおつか)古墳 大森岡ノ谷古墳群 須多田(すだた)古墳群 在自剣塚(あらじけんづか)古墳 宮地嶽古墳 宮司井手ノ上(みやじいでのかみ)古墳 手光(てびか)湯ノ浦古墳群 手光波切不動古墳 以上の古墳の大部分が国の史跡に指定されているが、宮司井手ノ上古墳、手光湯ノ浦古墳群、手光波切不動古墳は未指定である。
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