古墳発掘の経緯
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「鶴ヶ丘稲荷神社古墳」の記事における「古墳発掘の経緯」の解説
日本住宅公団が川越市と鶴ヶ島市にまたがる地域の宅地開発を計画したことにより、1971年(昭和46年)より宅地開発を予定した地域の発掘調査が行われることになった。1973年(昭和48年)の発掘調査で鶴ヶ丘一号墳など複数の古墳が存在したことが明らかとなり、一帯にはかつて古墳群が存在したものと推定され、「鶴ヶ丘古墳群」と命名された。しかし多くの古墳はかつての山林を戦後、大規模に畑地として造成した際に消滅してしまったと推定された。 鶴ヶ丘稲荷神社古墳は、鶴ヶ丘古墳群の中で唯一墳丘を残していた古墳であったが、1983年(昭和58年)から1984年(昭和59年)に行われた発掘調査ののち、宅地化され消滅した。現在、かつて古墳があった場所から南西側約50メートルの公園内に墳丘・石室・周溝が復元されている。
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古墳発掘の経緯
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金鈴塚古墳は大正時代から発掘の計画がなされたこともあったが、まず1932年頃、残存していた後円部の一部を削るような形で道路が作られた、その際に横穴式石室の入り口部分も削られたために金銅製の飾履などが出土し、出土品の中で主なものは地主の寄贈により東京国立博物館に収蔵されたが、散逸してしまった資料もある。 道路建設後も墳丘が削られ続け、石室の一部が露出して盗掘の危険が高まっているのを見た地元の考古学者から、1950年3月、古墳の保存と発掘を要望する声が上がった。そこで千葉県の史跡調査委員会と早稲田大学の考古学研究室によって、まず1950年4月15日から19日にかけて発掘が行われた。発掘を開始したところ、石室の天井石の消失や崩壊などによって石室内は完全に土砂に埋もれてしまっており、石室の入り口からではなく、石室の上部から掘り進める方式で発掘を行うことになった。しかし残存していた天井石は思いのほか大きく発掘作業は難航し、まず石室の中間部分の発掘と石室内に安置されていた石棺内部の発掘を行い、残りの部分は後日発掘を行うこととなった。そして1950年7月25日から31日にかけて、二度目の石室内の発掘調査が行われた。この時は石室入り口の羨道部、石室奥の部分の発掘が行われた。 2度にわたる発掘の結果、未盗掘であった金鈴塚古墳の石室内からはおびただしい副葬品が検出された。7月の発掘の際、石室内最奥部から金製の鈴が5つ検出され、その金鈴にちなみ1950年11月3日、千葉県の史跡指定とともに二子塚古墳という名から金鈴塚古墳という名に改称された。 その後、1998年に古墳近隣で行われた建て替え工事に際して、古墳の規模を調査するための範囲確認調査が行われ、2000年から2003年にかけても古墳周囲にトレンチを掘って古墳の範囲確認を行った。そして2003年7月28日から8月8日にかけて、残存していた後円部墳丘の測量、そして石室内の再発掘調査が行われた。その結果として金鈴塚古墳の規模は墳丘長約100メートル、二重の周濠を含めると140メートルという規模であったと考えられること、そして横穴式石室の一部には加工された切石が用いられており、特に床面には切石が敷かれているという、当時としては先進的な築造がなされていたことが判明した。
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