古墳発見と発掘の経緯とは? わかりやすく解説

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古墳発見と発掘の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:36 UTC 版)

天文台構内古墳」の記事における「古墳発見と発掘の経緯」の解説

天文台構内古墳は、江戸時代後期地誌新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』の、多摩郡世田谷大沢村の項に富士塚として記載されており、当時富士塚として利用されていたことが明らかになっている。また当時女人禁制婦女子登ることが禁じられており、その昔甲府殿の鷹場御立場として利用されたという言い伝えがあるとの記述もある。 このように天文台構内古墳長い間古墳とはみなされていなかったが、1970年昭和45年)、三鷹市市史編纂委員の手によって発掘が行われ、横穴式石室存在明らかになり古墳であることが判明した。ただし学界発掘調査の成果公表されず、古墳存在広く知られることがなかった。 1992年平成4年)から1994年平成6年)にかけて、東京都教育委員会多摩地区古墳について確認調査実施し、その報告書の中で初め天文台構内古墳の名が学会知られるようになった2003年平成15年)から開始され武蔵府中熊野神社古墳発掘結果、よく似た横穴式石室持っている天文台構内古墳注目度高まったこともあって、天文台構内古墳2004年平成16年)度以降継続して発掘調査研究が行われている。 まず2004年12月天文台構内古墳墳丘測量調査実施された。その後2006年平成18年2月には横穴式石室全容調査目的とした発掘調査が行われ、複室胴張り形の石室であることが確認された。2006年11月発掘調査では墳丘の状態と周濠について確認なされた。 さらに2007年平成19年10月から11月にかけて墳丘墳丘周囲発掘調査が行われ、その結果2007年12月天文台構内古墳全国4例目の上下方墳であることが判明した。ただし下方部に墳丘葺石ほどこした武蔵府中熊野神社古墳異なり天文台構内古墳円墳周囲方形周濠めぐっている形をしており、上円下方墳類型の墳型として「方基円墳」という名称も提唱されている。 2008年平成20年8月玄室内から7世紀第三四半期のものと見られる須恵器の壺と、土師器の坏が発見された。

※この「古墳発見と発掘の経緯」の解説は、「天文台構内古墳」の解説の一部です。
「古墳発見と発掘の経緯」を含む「天文台構内古墳」の記事については、「天文台構内古墳」の概要を参照ください。

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