立地と龍角寺古墳群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 23:26 UTC 版)
「浅間山古墳 (栄町)」の記事における「立地と龍角寺古墳群」の解説
龍角寺古墳群は、印旛沼東岸の標高約30メートルの下総台地上に広がっている。その中で浅間山古墳は墳丘東側から伸びている谷の源頭部に築造されている。龍角寺古墳群では、浅間山古墳以前に造営された前方後円墳や円墳は、丘陵内の印旛沼に面した高台に造営されたのに対し、竜角寺岩屋古墳以降の後期に造営された方墳は、浅間山古墳と同じく丘陵東側に面した谷の源頭部に築造されており、古墳の規模のみならず築造場所から見ても浅間山古墳の築造は竜角寺古墳群の画期であったことがわかる。丘陵東側の谷は、古墳築造当時は香取海に注いでいた川の源流部に当たり、浅間山古墳は印旛沼よりも香取海を重視した立地であった。 龍角寺古墳群は6世紀第2四半期に最初の古墳が造営されたと考えられており、これは南隣の公津原古墳群が4世紀前半からの古墳の造営が見られることと比べて、新しい時期に古墳の築造が開始されたことがわかる。6世紀前半には船塚古墳が造営されるなど、当初は公津原古墳群を造営した首長が地域の主導権を握っていたものと考えられるが、6世紀後半には目立った古墳は築造されなくなり、龍角寺古墳群を築造した首長に主導権が移ったものと考えられている。 また龍角寺古墳群は地域を代表する首長墓ばかりではなく、その下位の首長墓を含めた複数系列の首長を葬る古墳が同時に築造されていたものと考えられている。つまり龍角寺古墳群最大の前方後円墳である浅間山古墳は、周辺地域の各首長を葬った龍角寺古墳群の盟主墳であり、同時期に周辺古墳群で造営された古墳の中でも最大である事実から、印旛沼周辺を代表する首長を葬った古墳と見られている。 なお龍角寺古墳群では、浅間山古墳の築造後は岩屋古墳、みそ岩屋古墳といった方墳の築造が行われた。これは内裏塚古墳群など、古墳時代後期から終末期古墳の時代にかけての千葉県内の古墳群、さらには埼玉古墳群など関東地方の有力古墳群でも確認できる現象である。
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