立地の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:49 UTC 版)
894年の遣唐使の廃止後、基肄城(きいじょう)は軍事的な城としての機能を離れて、仏教の修行道場となる。基山南麓の瀧場には宝篋印塔(ほうきょういんとう)・60基の五輪塔・板碑が現存する。 建永元年(1206年)当時は、中山の地(本福寺の位置する場所)は、天満宮安楽寺に寄進された荘園であった。これは安楽寺新三重塔経営の用にあてるためであった。『天満宮安楽寺草創日記』(太宰府天満宮文書)に、 建永元年五月、寄進青木圧荒野、 三笠西郷兵馬田并寺辺基肄中山 とみえる。 宝永6年(1706年)に記された貝原益軒の『筑前国続風土記』には、城山千坊・城山四王院とある。山麓の不動寺・寺谷・仁蓮寺・天台寺などの寺名のつく集落や、仏谷・道場原などの地名は、その遺称であると伝えられている。 また、『荒穂神社縁起』によれば、永正年中(1504年 - 1520年)以前に荒穂神社は中山の頂上から麓に遷座したとあり、本福寺はその跡地に位置する。
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