立地と遺跡概要
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遺跡は、ティティカカ湖沿岸から約80kmほど内陸、現在のプカラ村近くに存在する。ティティカカ湖周辺の遺跡では最大規模を誇る。7段のテラス状基壇からなり(修復復元されているのは6段)、中央に階段を備える。頂上部には、半地下式の方形(正確には7角形)の広場が複数存在する。中央階段の最頂上部分は植民地期の建造物で破壊されている。遺跡は、複数の構造物からなる巨大複合遺跡で、その規模については諸説ある。 ペニョンPeñonと呼ばれる砂岩の露頭およびテラス状の建造物、半地下式の建造物などがもっとも有名である。プカラ遺跡は、紀元前500年から紀元後400年ころまで利用され、ティティカカ湖沿岸北部の中心遺跡となる。
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立地と遺跡概要
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遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。 2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km2になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3km2(300万m2)に達する。 地勢は、東が高く西が低い。三輪山・巻向山・穴師山などの流れが巻向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されている。縄文時代に土石流の流れ込みがあり被害があった事が確認されている。そのためか、遺跡からは弥生時代の集落は確認されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基検出されているのみである。この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出されている。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされている。なお、発掘調査を担当した石野博信は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。 纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す遺跡であり、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとする研究者から、邪馬台国の最有力候補地ともされる。2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある。 石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。 飛鳥時代から奈良時代にかけては、この地域に市が発達し「大市」と呼ばれた。箸墓古墳のことを、宮内庁治定では「大市墓」というのはこのためである。奈良時代から平安時代にかけては、井戸遺構や土坑、旧河道などが検出されている。「大市」と墨書された土器も検出されている。 遺構は2013年(平成25年)10月17日に「纒向遺跡」として国の史跡に指定された。
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