震災と戦災、接収の時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 震災と戦災、接収の時代の意味・解説 

震災と戦災、接収の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:12 UTC 版)

横浜市」の記事における「震災と戦災、接収の時代」の解説

1923年大正12年9月1日起きた関東大震災大正関東地震)では、横浜港関内始め市内全域甚大な被害受けた東京より震源近く、ほぼ直下型地震直撃受けた横浜市内は特に壊滅的な被害を受け、各国領事館建物全て倒壊山手横浜地区洋館群も壊滅的被害を受け、港湾機能対外貿易都市として機能は完全にマヒした。その後震災復興事業により、日本大通り拡幅山下公園造成横浜三塔数えられる神奈川県庁舎キングの塔)や横浜税関庁舎クイーンの塔)の建設などが行われ、1929年昭和4年)にはほぼ旧状に復した昭和時代入り1927年昭和2年4月第3次市域拡張が行われ、同年10月には区制施行されて、鶴見区神奈川区中区保土ケ谷区磯子区5区置かれた。以降第6次まで続く市域拡張1939年昭和14年))と東京湾岸の埋立により市域拡大し市域面積は437.38 km²2006年平成18年))、行政区の数は18区となっている。1930年昭和5年前後には、現在山下公園係留されている氷川丸など、豪華客船就航が相次ぎ横浜港太平洋航路乗船地として、客船黄金時代一翼担ったまた、この頃横浜港は、生糸貿易港から工業港へと変貌し輸出輸入とも、機械類金属製品鉄鋼割合高まった。この傾向は、第二次世界大戦中軍需生産期、戦後高度経済成長期経て、より強まっていった。 第二次世界大戦末期1945年昭和20年5月29日横浜大空襲では、磯子区から鶴見区に至る沿岸部焼き尽くされ中区西区中心市街地壊滅した戦時中通じて空襲による被害は、罹災面積6,940,000坪、罹災人口399,187人、罹災戸数98,361戸、死者5,830人、負傷者14,215人に及び、市街地46%が被害受けた同年8月終戦によりイギリス軍アメリカ軍ソビエト連邦軍中心とした連合国軍進駐し、横浜中心市街地横浜港接収され都市機能麻痺した連合国軍は、横浜税関ビル連合国軍最高司令官総司令部GHQ、後に東京第一生命ビル移転)と太平洋陸軍総司令部(AFPAC)を置き、軍事拠点とした。空襲とそれに引き続く接収により、横浜復興大幅に遅れた1950年昭和25年)、横浜国際港都建設法制定され復興向けた取り組み本格化する。1951年昭和26年)には、サンフランシスコ講和条約締結され日本連合国による占領体制終わり新たに市長となった実業家元貴院議員の平沼亮三の下、接収解除向けて動き始めたまた、この年には、横浜港管理が国から市に移管された。条約発効した1952年昭和27年以降大さん橋山下公園などが次々と接収解除された。1957年昭和32年)には横浜国際港都建設総合基幹計画決定され今日に至るまでの都市計画骨子となった。なお市域には150m²余の在日米軍施設がある(2021年令和3年1月1日現在)。

※この「震災と戦災、接収の時代」の解説は、「横浜市」の解説の一部です。
「震災と戦災、接収の時代」を含む「横浜市」の記事については、「横浜市」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「震災と戦災、接収の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「震災と戦災、接収の時代」の関連用語

1
2% |||||

震災と戦災、接収の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



震災と戦災、接収の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの横浜市 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS