開発競争時代とは? わかりやすく解説

開発競争時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 21:05 UTC 版)

飛騨川流域一貫開発計画」の記事における「開発競争時代」の解説

日本電力東邦電力による飛騨川電力開発競争は、まず日本電力一歩先に開発着手した小林計画した瀬戸第一馬瀬川小坂久々野の4発電所計画1911年岐阜県庁申請し1920年大正9年)に申請許可され直ち工事開始された。まず瀬戸第一発電所工事動力源となる竹原川発電所工事着手益田郡竹原村現在の下呂市)を流れ飛騨川支流竹原川取水堰設けて最大920キロワット電力発生させ、瀬戸第一発電所工事現場送電するという目的であった竹原川発電所1921年10月工事許可を得るとわずか1年後1922年11月に運転を開始した竹原川発電所完成後日電力計画枢軸となる瀬戸第一発電所建設着手益田郡川西村飛騨川本流取水堰である瀬戸ダム建設し、6,600間の導水路発電所導水2万894キロワット発電する計画であり、1924年大正13年3月完成した続いて小坂発電所建設着手途中送電線用地買収軟弱な地盤による難工事工期長期化し、1920年工事着手より6年費やし1926年大正15年11月出力1万8000キロワット発電所として運転を開始小坂発電所完成後に今度馬瀬川発電所工事着手瀬戸第二発電所と名称を変更し馬瀬川上流西村ダム建設、そこから全長9キロメートルトンネル飛騨川導水して最大2万1000キロワット発電する計画とした。 一方東邦電力岐阜電力開発委託し1919年6月日本電力瀬戸第一発電所より下流飛騨川において発電用水利権獲得すべく岐阜県庁申請。翌1920年飛騨川第一第二第三発電所計画許可され工事着手した。この3発電所その後金山飛騨川第一飛騨川第二発電所と名称がそれぞれ変更され、さらに金山発電所計画より下原発電所計画分離飛騨川第一発電所七宗(ひちそう)発電所名倉発電所分割飛騨川第二発電所上麻生発電所に名称が変更された。東邦電力最初に着手したのは飛騨川第一計画分割してできた七宗発電所で、佐見川合流点直上流に取水堰である七宗ダム建設、その下流発電所建設し最大5,650キロワット発電する計画1923年大正12年1月23日運転を開始続いて上麻生発電所建設着手する白川合流点下流取水堰である上麻生ダム建設途中支流細尾谷に建設され細尾谷(ほそびだに)ダム経て加茂郡七宗町上麻生飛水峡発電所設け最大2万4300キロワット発電する当時飛騨川最大発電所となった上麻生発電所1926年10月29日に運転を開始した続いて馬瀬川合流点直下流に建設する大船渡ダム取水元とする出力6,425キロワット金山発電所下原ダム取水元とする出力1万9451キロワット下原発電所1926年より着手されたが、ここで日本電力計画東邦電力計画衝突する日本電力先述通り馬瀬川西村ダム建設して飛騨川導水する瀬戸第二発電所建設進めていたが、これは東邦電力下原発電所水利権申請行った5年後1930年昭和5年)に計画変更したものであり、下原発電所申請時とは異な計画であった。この計画変更沿って瀬戸第二発電所建設される下原発電所工事大幅変更迫られるほか、この後東邦電力計画していた東村発電所計画費用対効果の面で計画成り立たなくなる。東邦電力日本電力4年協議重ね瀬戸第二発電所の方が発電効率良いことから東邦電力東村発電所計画中止し下原発電所については馬瀬川ではなく飛騨川水量増加させて発電するという日本電力有利な条件妥結した。ただし日本電力1日たりとも発電所工事遅延許されなくなり遅れた場合相応賠償金東邦電力支払うという取り決め同時に交わされている。日本電力期日どおり瀬戸第二発電所1938年昭和13年10月完成させ、東邦電力下原発電所同年12月完成させている。日本電力瀬戸第二発電所運転開始により、飛騨川流域での開発一区切りをつける。 その後東邦電力岐阜電力合併し直接飛騨川開発乗り出す加茂郡白川町飛騨川建設した名倉ダム取水元とする出力1万9678キロワット名倉発電所1936年昭和11年)に完成させ、開発の手飛騨川最下流部に伸ばす。まず加茂郡川辺町飛騨川本流川辺ダム建設し出力2万6500キロワット川辺発電所1937年昭和12年3月26日完成させ、さらに発電による放流流量不均衡となり、下流への利水河川環境への影響を防ぐための逆調整池建設するため飛騨川木曽川合流点ダム建設する計画立てた。しかしここで今度木曽川本流水力発電事業進めていた大同電力衝突する大同電力は既に落合ダム大井ダム笠置ダムといった発電用ダム木曽川本流建設しており、大井ダム建設に際して宮田用水取水口水没することから下流宮田用水木津用水を介して灌漑恩恵を受ける農家との間で宮田用水事件という水利権問題抱えていた。この水利権問題解決逆調整目的以って東邦電力と同じ地点ダム建設する構想立てていた。このため事業調整が必要となり両社協議重ねるが、濃尾平野重要な水源である木曽川水利用において、計画中のダム重要な役割を果たすため速やかな施工河川管理者である岐阜県知事より求められた。両社発電用水利権それぞれ提供し共同事業としてダム及び発電所建設取り掛かり1939年昭和14年)に完成させた。これが今渡ダム今渡発電所であり、現在は関西電力管理している。 こうして大正・昭和初期における飛騨川水力発電開発日本電力東邦電力大同電力という当時五大電力会社のうちの三社事業絡み合う複雑な様相となっていた。しかしこの間日本満州事変以降急速に戦時体制向かっており、電力事業次第その影響を受けるようになった

※この「開発競争時代」の解説は、「飛騨川流域一貫開発計画」の解説の一部です。
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