開発競争時代
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「飛騨川流域一貫開発計画」の記事における「開発競争時代」の解説
日本電力と東邦電力による飛騨川の電力開発競争は、まず日本電力が一歩先に開発に着手した。小林が計画した瀬戸第一・馬瀬川・小坂・久々野の4発電所計画を1911年岐阜県庁に申請し、1920年(大正9年)に申請が許可され直ちに工事が開始された。まず瀬戸第一発電所の工事用動力源となる竹原川発電所の工事に着手、益田郡竹原村(現在の下呂市)を流れる飛騨川支流の竹原川に取水堰を設けて最大920キロワットの電力を発生させ、瀬戸第一発電所の工事現場に送電するという目的であった。竹原川発電所は1921年10月に工事許可を得るとわずか1年後の1922年11月に運転を開始した。竹原川発電所完成後日本電力は計画の枢軸となる瀬戸第一発電所の建設に着手。益田郡川西村の飛騨川本流に取水堰である瀬戸ダムを建設し、6,600間の導水路で発電所に導水し2万894キロワットを発電する計画であり、1924年(大正13年)3月に完成した。続いて小坂発電所の建設に着手、途中送電線の用地買収や軟弱な地盤による難工事で工期が長期化し、1920年の工事着手より6年を費やし1926年(大正15年)11月、出力1万8000キロワットの発電所として運転を開始。小坂発電所完成後に今度は馬瀬川発電所の工事に着手、瀬戸第二発電所と名称を変更し馬瀬川上流に西村ダムを建設、そこから全長9キロメートルのトンネルで飛騨川に導水して最大2万1000キロワットを発電する計画とした。 一方東邦電力は岐阜電力に開発を委託し、1919年6月に日本電力の瀬戸第一発電所より下流の飛騨川において発電用水利権を獲得すべく岐阜県庁に申請。翌1920年に飛騨川第一・第二・第三発電所計画が許可されて工事に着手した。この3発電所はその後金山・飛騨川第一・飛騨川第二発電所と名称がそれぞれ変更され、さらに金山発電所計画より下原発電所計画が分離。飛騨川第一発電所は七宗(ひちそう)発電所と名倉発電所に分割、飛騨川第二発電所は上麻生発電所に名称が変更された。東邦電力が最初に着手したのは飛騨川第一計画が分割してできた七宗発電所で、佐見川合流点の直上流に取水堰である七宗ダムを建設、その下流に発電所を建設し最大5,650キロワットを発電する計画で1923年(大正12年)1月23日運転を開始。続いて上麻生発電所の建設に着手する。白川合流点の下流に取水堰である上麻生ダムを建設、途中支流の細尾谷に建設された細尾谷(ほそびだに)ダムを経て加茂郡七宗町上麻生の飛水峡に発電所を設け、最大2万4300キロワットを発電する。当時飛騨川最大の発電所となった上麻生発電所は1926年10月29日に運転を開始した。続いて馬瀬川合流点直下流に建設する大船渡ダムを取水元とする出力6,425キロワットの金山発電所と下原ダムを取水元とする出力1万9451キロワットの下原発電所が1926年より着手されたが、ここで日本電力の計画と東邦電力の計画が衝突する。 日本電力は先述の通り馬瀬川に西村ダムを建設して飛騨川へ導水する瀬戸第二発電所の建設を進めていたが、これは東邦電力が下原発電所の水利権申請を行った5年後の1930年(昭和5年)に計画を変更したものであり、下原発電所の申請時とは異なる計画であった。この計画変更に沿って瀬戸第二発電所が建設されると下原発電所は工事の大幅変更を迫られるほか、この後東邦電力が計画していた東村発電所計画は費用対効果の面で計画が成り立たなくなる。東邦電力と日本電力は4年間協議を重ね、瀬戸第二発電所の方が発電効率が良いことから東邦電力は東村発電所の計画を中止し、下原発電所については馬瀬川ではなく飛騨川の水量を増加させて発電するという日本電力に有利な条件で妥結した。ただし日本電力は1日たりとも発電所工事の遅延が許されなくなり、遅れた場合は相応の賠償金を東邦電力に支払うという取り決めも同時に交わされている。日本電力は期日どおり瀬戸第二発電所を1938年(昭和13年)10月に完成させ、東邦電力も下原発電所を同年12月に完成させている。日本電力は瀬戸第二発電所の運転開始により、飛騨川流域での開発に一区切りをつける。 その後東邦電力は岐阜電力を合併し、直接飛騨川の開発に乗り出す。加茂郡白川町の飛騨川に建設した名倉ダムを取水元とする出力1万9678キロワットの名倉発電所を1936年(昭和11年)に完成させ、開発の手を飛騨川最下流部に伸ばす。まず加茂郡川辺町の飛騨川本流に川辺ダムを建設し、出力2万6500キロワットの川辺発電所を1937年(昭和12年)3月26日に完成させ、さらに発電による放流で流量が不均衡となり、下流への利水や河川環境への影響を防ぐための逆調整池を建設するため飛騨川と木曽川の合流点にダムを建設する計画を立てた。しかしここで今度は木曽川本流の水力発電事業を進めていた大同電力と衝突する。 大同電力は既に落合ダム、大井ダム、笠置ダムといった発電用ダムを木曽川本流に建設しており、大井ダム建設に際して宮田用水取水口が水没することから下流の宮田用水・木津用水を介して灌漑の恩恵を受ける農家との間で宮田用水事件という水利権問題を抱えていた。この水利権問題解決と逆調整の目的を以って東邦電力と同じ地点にダムを建設する構想を立てていた。このため事業の調整が必要となり両社は協議を重ねるが、濃尾平野の重要な水源である木曽川の水利用において、計画中のダムは重要な役割を果たすため速やかな施工を河川管理者である岐阜県知事より求められた。両社は発電用水利権をそれぞれ提供し共同事業としてダム及び発電所の建設に取り掛かり、1939年(昭和14年)に完成させた。これが今渡ダムと今渡発電所であり、現在は関西電力が管理している。 こうして大正・昭和初期における飛騨川の水力発電開発は日本電力、東邦電力、大同電力という当時の五大電力会社のうちの三社が事業に絡み合う複雑な様相となっていた。しかしこの間日本は満州事変以降急速に戦時体制に向かっており、電力事業も次第にその影響を受けるようになった。
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