開発着手まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 17:01 UTC 版)
技術者ハーバート・オースチン(Herbert Austin 1866-1941)をトップとする第一次世界大戦前のオースチンの主力製品は大型車であったが、1909年からはスイフト自動車が生産した単気筒7馬力(hp)の車を「オースチン・セブン」の名で販売した。これは一時的なもので、第1次大戦終結後の同社は再び大型車の製作に復帰した。 しかし、1919年に発表した3.6リッター車「20HP」の売れ行きは芳しくなく、その廉価版として1921年にはスケールダウンモデルの1.7リッター車「12HP」も発売されたが、これも功を奏せず、オースチン社の経営状況は急速に悪化、破綻直前となる。 この危機的事態の中、ハーバート・オースチンは戦後の社会・経済状況を鑑み、更に小型の自動車が市場から求められていると考えた。そこで、当時中堅・零細メーカーによって盛んに生産されていた1000cc以下の軽量・廉価な「サイクルカー」に対抗できる、新しい本格的小型車の開発を企画したのである。 当時、イギリスでまっとうな自動車と考えられていなかったクラスの簡易車――サイクルカーの市場に乗り込むという決断に、会社の危機的財務状況を心配する役員たちは抗議したが、ハーバートは同業メーカーであるウーズレーにアイデアを持ち込む、と脅しをかけた。ハーバート・オースチンは元々ウーズレーで職業人として研鑽を積んだ経歴の持ち主で、創業者ウーズレーの死後には一時社長職を引き継ぎ、第一次世界大戦終了後も自身の会社経営と並行して、いまだウーズレーとも関係を持つ特異な立場にあったので、このような異例の説得策も使えたのである。 更にハーバートは、開発は自分自身が行い、その費用は自分の資産からの持ち出しでまかなう、という捨て身の条件まで提示したため、最後には役員会もゴーサインを出すことになった。ハーバートは自身の財産を投じてこれを設計したことから、多くの関連特許を自身の名前で取得している。この投資で「7」が一台売れるとハーバートには2.10ポンドのロイヤルティが支払われることとなった。
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