上麻生発電所
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上麻生ダムは飛騨川と白川の合流点より2キロメートル下流に建設された。ダムより放流された水は一旦ダム下流で飛騨川に合流する細尾谷に建設された調整池・細尾谷ダム(ほそびだにダム。重力式・高さ22.4メートル)によって貯えられ、ここから圧力隧道を伝って七宗町上麻生にある上麻生発電所に送水される。ダム名はこの上麻生という地名から採られているが、上麻生地区にあるわけではない。発電所は飛水峡の断崖上に建設されているが、これは洪水時の急激な水位上昇から発電所設備を守るための対策であった。またダムの右岸には長い魚道が独立して設けられているが、これは発電所建設の際に許認可を持つ岐阜県が水利権使用許可の条件として魚道を設置し漁業権を保護することを要求したためである。この魚道は高山本線の車窓から全容を眺めることができる。6月から8月にかけて、漁業対策として魚道に一定の水量を放流している。 その後飛騨川は飛騨川流域一貫開発計画によって上流に朝日ダムや秋神ダム、高根第一ダム・高根第二ダムといった大規模ダム式発電所が建設されるに及び、これら大規模発電所との整合性を持たせて発電効率を向上させる狙いで、1959年(昭和34年)に電力行政を司る通商産業省(経済産業省の前身)が策定した第四次水力発電調査において上麻生発電所の再開発を行う計画が立てられた。これが新上麻生発電所の事業発端である。だが、終戦後にも新上麻生発電所建設の計画があった。 戦後全国の河川は治水整備の遅滞と森林の無計画な伐採によって台風や豪雨の度に深刻な水害を招いていた。内閣経済安定本部は水害の続発が日本経済復興に重大な影響を与えることを危惧し、1949年(昭和24年)に「河川改訂改修計画」を木曽川を含む全国12水系で計画した。木曽川においては1951年国土総合開発法によって木曽特定地域総合開発計画が策定、この中で飛騨川に大規模な多目的ダムを建設する計画を立てた。洪水調節と発電を目的にした高さ60.0メートル、総貯水容量7,900万立方メートルの大規模ダム・久田見ダムである。このダムが完成すれば直上流にある上麻生ダムが水没し上麻生発電所の機能が停止するため、久田見ダムを水源として最大6万2,000キロワットを発電する「新上麻生発電所」が建設省中部地方建設局によって計画された。だが久田見ダム計画は立ち消えとなった。 その後前述の理由で再度計画が浮上し、新上麻生発電所は1987年(昭和62年)6月24日に運転を開始した。最大6万1,400キロワットを発生させる。上麻生発電所に隣接して建設されたが、取水元は「上麻生」の名こそ付いているが上麻生ダムではなく、上麻生ダムの直上流に建設されている名倉発電所の取水元・名倉ダム(高さ13.5メートル・重力式)である。この新上麻生発電所運転開始により、飛騨川流域一貫開発計画はその役目を事実上終えている。
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上麻生発電所
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1920年4月に水利権を得た「飛騨川第二発電所」(3地点のうち下流側)の計画を変更し、水路の位置を飛騨川左岸から右岸へ、発電所建設地を上流側へと移して開発されたのが上麻生発電所である。高山本線上麻生駅延伸をうけて1924年4月に着工。鉄道開通で物資の運搬が円滑になり工事が順調に進んだため予定より1年4か月工期が短縮され、1926年11月14日に竣工し発電を開始した。 上麻生発電所の所在地は岐阜県武儀郡上麻生村(現・七宗町上麻生)。飛騨川と水路の途中の細尾谷の2か所に調整池を持つ水路式発電所で、発電所には米国IPモーリス (I. P. Morris) 製フランシス水車とゼネラル・エレクトリック (GE) 製発電機各3台を備える。発電所出力は24,300 kW。発生電力は77kV送電線で羽黒変電所へと送電。羽黒から名古屋方面へ至る送電線には岩塚変電所との間を結ぶものがすでにあったが、名古屋方面の給電拠点を分散させるため、1926年8月羽黒岩塚線の途中(清州開閉所)から分岐線を伸ばし枇杷島変電所を新設した。 建設中の1926年4月、東邦電力は岐阜電力との合併契約を締結し、同年10月2日合併手続きを完了した。合併に伴い七宗・上麻生両発電所は東邦電力へと引き継がれている。
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